2026 冬 BKYJ クリヤーヨーガと道教

 

By Durga Ahlund

 

「お願いだから、ここからどちらへ行けばいいの?」 アリスは尋ねました。

「それは、あなたがどこに行きたいかによって大きく左右されるわ」と猫は言いました。

「どこへ行くかはあまり気にしないわ」とアリスは言いました。

「じゃあ、どちらへ行っても構わないのね」と猫は言いました。

ルイス・キャロル不思議の国のアリス

  正直に言うと、私は若い頃、少しアリスのようでした。人生の巡礼の旅をしているように感じていましたが、目的地は思い描いていませんでした。ただ、人生を生きていることに幸せを感じていました。何か野心や目標があったとは思いません。ただ、適切な時に適切な道が現れ、たとえ現れたとしても、その道は目的地がそれを必要とするように、変わることもあると信じていました。 確かに、心の底では、この道は東洋神秘主義へと向かうだろうと感じていましたが、その目的地の理由は、到着して初めて明らかになるだろうと受け入れていました。あとは、自分のカルマやダルマが導き、時が来れば、あるいは来ないとしても、ただそれを受け入れればいいのだ、と考えると、ある種の満足感がありました。

 

 私たちは皆、人生の巡礼の旅路を歩んでいます。意識しているかどうかに関わらず、同じ方向へ進んでいます。行き着く先が重要でないなら、どの道も等しく正しいと言えるでしょう。しかし、私たち全員にとって、カルマの真実、因果関係に気づくことが非常に重要だと私は考えています。なぜなら、その道のりで、私たちの行動の微妙な影響が、私たちの幸福や不幸の根源となるからです。全く同じものは二つもなく、全く同じ人も二人もなく、同じ道も二つありません。しかし、私は自分の歩みの中で、クリヤーと道教の間に多くの共通点を見つけました。どちらもバランスの取れた満足のいく人生へと導きます。そして、それは良い道ではないでしょうか?

 

 クリヤーヨーガとは、意識を伴う行為です。そして、クリヤーヨーガの目標は、可能な限り意識の状態で生きることです。意識は私たちを目撃意識の状態へと導きます。目撃とは、無私の状態です。目撃意識とは、満足した観察の状態です。物事の本質と調和して生きるためには、この状態が不可欠です。クリヤーヨーガの究極の目標は自己実現ですが、それは私たちの人生にとって真に何を意味するのでしょうか?私たちは、あらゆる状況において、簡素さ、謙虚さ、敬意、優しさ、優しさ、そして幸福に満ちた長い人生を送るために、欲望や恐れから心を浄化するように教えられています。道(タオ)は、すべての現実の源であり原理と定義されています。それは、常に活動している、神秘的で神秘的な万物の統一体です。道は、到達不可能で、動かすことのできない、崇高な平安です。道教徒は気づきを実践することで、道の自然な流れに同調します。道は万物の本質と調和しています。道教には従うべき規則は少ないですが、望む場所にたどり着くための豊かで貴重な道しるべを与えてくれます。そして、その場所とは、魂と精神が意識的に繋がっている場所であり、洞察力、インスピレーション、そして行動における冷静さと迅速さを長きにわたって実現します。それは、自分にとって正しくないことを見抜き、ノーと言う能力、そして内なる平和、静かな自由、自由な心、抵抗のない愛、そして完全な満足感を得る能力を含みます。

「道は何も行わないが、成し遂げられないことは何もない」…道徳経。

 

 気づきの状態を通して、私たちは皆、道と調和し始めることができます。クリヤー・シッダは「道」という言葉は使いませんが、万物の一体性、すなわち「全ては一の中にあり、一の中に全てがある」と教えています。神は愛であり、愛は神です。クリヤーは、気づきの中に神の存在があると教えています。心が静まり、落ち着きのなさがなくなり、微細な経路でプラーナのバランスが取れ、心が敏感になり、集中しやすくなると、洞察力とインスピレーションの力が生まれます。心が積極的に落ち着き、冷静に行動できるようになります。私たちは原因と結果を明確に見極め、瞬間瞬間にカルマを解決するために取り組み始めます。これは自然に意識的な目撃状態へと発展し、直感的な感受性を高めます。目撃状態における人の行動は、鮮明な意識そのものとより調和し、簡素さ、誠実さ、平和、非競争、無為の行為を促します。それは存在全体を今この瞬間に引き込みます。そして、意識は私たちを魂の旅へと導いてくれます。

 シッダたちは、このように生きる人は決して自らのダルマから逸脱せず、あらゆる状況において精神的な英雄として正しく行動すると言います。彼らは、この目に見える宇宙全体がこの神聖な存在の宇宙的形態であると教えてくれます。それはまさに道教の教えです。

 科学は、すべての感情、感覚、そして苦しみを区別し、関与するのは意識的な心であると教えてくれます。私たちは、心の本質が幸福や興奮を求め、苦しみを避けることだと受け入れることができます。しかし、カルマ、因果関係が心の本質を通して機能するため、私たちは心の本質を徹底的に理解する必要があります。私たちは、心がどのように機能するかを理解する必要があります。利己主義的な感覚を通して、行為者と行われた事柄を関連付けるのです。それを変える必要はありません。しかし、常に考え、計画し、感情を表に出す「猿の心」を訓練し、リラックスしてただ観察するようにする必要があります。

 

 道教の信奉者やクリヤ・シッダは、私たちの世界観は文字通り自己観であると説きます。心が昨日や明日の野心、成功や失敗、興奮や恐れ、怒りや恨みについて反芻しているとき、心は物事の自然の秩序に抵抗しています。どんな流れにも乗って前進することはできません。幸せで善良であることは難しいのです。私たちは自分の不幸や善良さの欠如をすぐに他人のせいにしてしまいます。そうではなく、他人にも善良で幸せになる道、あるいは少なくとも満足できる道を示すべきです。クリヤー・ヨギは「意識を伴う行動こそが治療法である」と説明しています。呼吸は人生のインスピレーションであり、注意は集中力を形成し、行動が結果をもたらします。観察する心が瞑想に安らぎを得た時のみ、心の本質、すなわち神聖な意識の絶え間ない明確な叡智が浮かび上がるのです。「汝自身を知る」ためには、この神聖な意識を直接知る必要があります。自己探求以上に自分を知るための優れた方法はありません。自己探求は直感と洞察への扉を開きます。自己探求(私は誰か?)のプロセスは、心が作り出す絡み合いを解きほぐし、古くてネガティブな条件付けを解消することさえ助けます。思考と感情を浄化することで、私たちはただ観察する心、私たちが頼りにできる心、他者の影響を受け入れるのではなく、明晰さをもって私たちに適切なインスピレーションを与えてくれる心を発見することができます。これは、聞こえるほど難しくもなく、また難しいことでもありません。

 

 道教徒はこう言います。「正しいことが行われるためには、大したことは何もする必要はない。ただ、自然に起こるのだ。」しかし、それが起こるためには、物事をあるがままに捉え、それに応じて反応できなければなりません。無私の意識の状態にある者だけが、人生の状況や困難に関わらず、内なる自己の調和と整合を経験することができます。野心、欲望、自我に突き動かされず、道との調和において力を持つ者だけが、より深く、より直感的な衝動から行動するのです。道教徒は、どんな状況においても、執着するのではなく、常に手放すことを選びます。それが良いことであれ、悪いことであれ、あるいは中立的であれ、そのような理解と調和によって、物事は自然に起こるようになります。これもまた、クリヤー・ヨギには可能です。高度なクリヤー・ヨギもまた、無為の術を追求することで人生を歩み続​​けます。

 

無為の術とは?

 道教では、無為(ウー・ウェイ)と呼ばれています。つまり、行動する道教は、何もせず、引き起こさず、作らず、干渉や闘争、利己的な努力を伴わない、努力のない行為です。無為の道士(ベンジャミン・ホフによればプーさんの道士)は、何もせずに行動します。物事の本質に逆らうことなく…巧妙な操作をすることなく、物事が自然な流れに身を任せます…物事が内なる感性から、物事の自然なリズムへと進化していくのを許します。人は、自身の内なる本質と、私たちを取り巻く力強い自然法則と共に歩むことを選びます。タオは何かをするわけではありませんが、何もしないということはありません。

これは私がクリヤーヨーガの実践を通して経験したことです。献身的な実践者は、状況に合わせて変化し、直感に耳を傾け、それに応えることを学びます。私たちの実践は、状況、障害、機会に適切に対応するための敏感さを高め、意思決定を自らに委ねる気持ちを育みます。タオの流れは、クリヤー・ヨギにとってサットグルの呼びかけや手のように感じられるかもしれませんが、その愛すべき手、あるいは経験は、自分自身のハイヤーセルフからのものであり、決して物事を強制したり干渉したりすることはありません。ただあなたと共に立ち、すべてを見守り、物事が自然に結果を生み出すように、ありのままに作用するに任せているのです。タオ(源)またはサットグル(クリヤーヨーガの源)への委ねを生み出すのは、愛と慈悲です。愛と慈悲は神聖な錬金術となり、あらゆる愛と慈悲の究極の源泉と一体となります。あなたのすべての行動は自覚的で無私無欲です。あなたは見返りを求めることなく、より寛大に、より優雅に自分自身を捧げます。

 

「私たちは、責任を神格化された超人の肩に押し付けたり、運命が扉をノックするのをただ座って待ったりする必要はありません。ただ、自分の内にある力を信じ、それを使うだけでいいのです。そうすれば、他人の真似をしたり、競争したりするのをやめれば、物事は私たちのために動き始めます。」

― ベンジャミン・ホフ、『プーさんのタオ』

 

 物事がいかにして自然に起こるかという「自生」の概念を理解するのは難しい。「自生」は通常、自然さや自発性と訳される。ある著述家は「自生」を「自然にそうなるもの、つまり、存在を許され、自然に、干渉や衝突なく発展する場合にのみそうなる状態」と定義している。これは、道の秩序と流れが他の何にも従わないことを示唆している。荘子は「道は自らによって、そして自らを通して存在する」と述べている。それは自己生成的であり、それ自体で存在します。道は宇宙の秩序ですが、法則ではありません。宇宙に自らを押し付けるものではありません。老子道教創始者であり、クリヤーヨーガの伝統において尊敬されるシッダ)は、人間は宇宙の不可欠な一部であるため、道が自分とは全く別の物体であるかのように制御することは期待できないと述べています。自然の外に出て、自然の支配者になることはできません。心臓が鼓動し、体が自発的に呼吸するように、心も機能します。「自己そのまま」の心は、まさに目撃者意識の安定した状態です。

 

物事がうまくいくとき、責任があるのは賢い心なのでしょうか?

おそらく、時には、しばらくの間はそうかもしれません。しかし、多くの場合、物事がうまくいくのは、目の前にあるものを見て、物事の本質に従う心だと思います。プーさんの道は「丸いものを丸い穴に、四角い釘を四角い穴に差し込めば、物事は必ずうまくいく」と言います。賢い人は、たとえそれが合わない、あるいは属していないとしても、物事をうまく機能させるために、より巧妙な方法を考え出そうとします。プーさんの道は、物事を無理やり合わせようとしないことです。道教はもっと強く「手放すか、引きずられるか」と言います。無為は、それが合うからこそ、起こることの責任を負います。何もしていないように見えても、物事は成し遂げられます。

 クリヤー・ヨギとして、私たちは何かを達成しようと頑張りすぎると、たいていは望むようにはならないことを理解しなければなりません。特定の結果を期待すると、必ずフラストレーションと失望を招きます。期待せず、考えすぎず、計画しすぎず、無理をせず、ただ人生の流れに従い、自分に降りかかる仕事をこなし、目の前に開かれる新しい機会に「イエス」と言えば、私たちは流れの中にいられます。ヨガの実践でさえ、私たちをつまずかせることがあります。私たちはしばしば、新しい経験、もう一つの経験、より大きな経験を求めて激しい練習に励むという罠に陥り、結局は内なる流れのリズムから外れてしまいます。道教の信者のように、アーサナをし、瞑想し、何か仕事をし、何か奉仕をし、純粋な喜びのために、静けさのために、全身全霊で取り組む活動に身を置くことで得られる満足感のために生きる方が、もっと良いのではないでしょうか。

 

自分を信じること。人生における満足感の秘訣。

道教とクリヤーはどちらも、真の機会を見極めるための内なる羅針盤を育むのに役立ちます。洞察力と直感に耳を傾け、それを育み、信頼することを教えてくれます。体内のプラーナ(気)に耳を傾け、それを育み、信頼するための技法も教えてくれます。呼吸を訓練し、微細な経路を流れるエネルギーの流れを導き、体外のエネルギーへの抵抗を優しく取り除く方法を教えてくれます。内なる声を聞き、状況への気づきを体感することを学びます。心から笑みがこぼれる時、目の前に浮かんだアイデアや機会に「イエス」と答えます。内なる声から聞こえてくる時、不可能に思えることさえも、進んで追求します。

 

「世の中の安全策に走る悲観主義者は、ほとんど何も成し遂げることができません。なぜなら、彼らは状況を冷静かつ客観的に見ようとせず、たとえわずかなリスクさえも克服できる自分の能力を認識したり信じたりしないからです。」

– ベンジャミン・ホフ、『プーさんのタオ』

 

 クリヤーヨーガにおける霊的知覚の秘訣は、目撃の境地を求めることです。この境地に可能な限り留まるように努めましょう。それは満足の境地です。何事も待ち望む必要も、努力する必要も、希望する必要もありません。しかし、目撃の瞬間には、手の届かないものは何もありません。道教における無為の秘訣は、世界を完璧に信頼できる方法で知覚し、感じる能力を獲得することです。道教では自然の秩序を信頼しており、修行は単に、良いカルマの種を蒔き、休息し、土を耕し、そして放っておくというインスピレーションから始まります。皮肉なことに、巡礼の旅に出ていることを自覚している人だけが、真の存在を植え、それを養い、成長させ、本来あるべき姿に到達するために、内面で成長し、変化し続けるのです。それでもなお、彼らは人生の浮き沈みを通して、常に満足感を保ち続けるのです。道教の聖賢やクリヤー・シッダは、存在を養うために、肉体を神秘的な中心、究極の現実への神聖な通路として体験し、悟りは肉体の中でのみ得られることを理解する方法を教えてくれます。タントラの技法の錬金術を通して、クリヤーバンと道教の信者は共に、自らの内なる宇宙の調和のとれた光り輝く流れを目覚めさせます。

 クリヤー・ヨギは、タントラ(チャクラ、ナーディ、プラーナ)、体内の男性的なピンガラと女性的なイダーのエネルギーについて教えます。道教では気功、そして経絡(三つの丹田)、体内の気とタオ(男性的)、テ(女性的)のエネルギーについて教えます。チャクラと丹田は腺や臓器に付着し、結合組織を通して、よりバランスの取れたエネルギーを生み出し、微細な経路に吸収・蓄積するのに役立ちます。これらの技法は、プラーナ/気と意識を上方に導き、送り出すことで、生命の精神的・肉体的エネルギーを精神的エネルギーに変換し、体を精神の器とすることを目標としています。クリヤー・ヨギは、アーサナ、プラナヤーマ、ムドラ、マントラ、バンダ、視覚化、瞑想を用いてエネルギーを精製します。道教における気功の実践は似ていますが、同じではありません。伝え方は似ていますが、同じではありません。これらのタントラの実践は、洗練されたエネルギーの加速を刺激し、ダイナミズムと空虚感を高めます。これにより、通常は下向きに流れるエネルギーが方向転換され、潜在的なエネルギーが完璧な螺旋状に上向きに反転し、瞑想、インスピレーション、癒し、知恵、そして日々の生活の技が強化されます。

 シッダや賢者たちは、私たちに質素で謙虚な、精神的な英雄となるよう説いています。道教とクリヤーの修行は、心を浄化し、弟子の知覚、内省、瞑想、直感を研ぎ澄まします。私たちは、自分が望むものを引き寄せるのではなく、あるがままのものを引き寄せていることに気づきます。私たちの願いや祈りは、慈悲深い思いと親切な行いと調和したときに、叶えられ、応えられます。私たちは状況と戦うのではなく、心の中にあるものを養い、守るべきです。病的な、苦い、不純な考えをすべて心から消し去り、不親切な感情や怒りの感情をすべて洗い流すことで、自分自身を向上させなければなりません。目指すべきは、光り輝く顔、穏やかな精神、澄んだ目、そして安定した神経です。こうして、私たちはあらゆる状況において正しく、義にかなって、親切に生き、行動する準備をするのです。

 道教のシッダや賢者たちが教えてくれたように、自分自身、世界、そして他のすべての人々について、これまで完全に間違っていたことに気づき、ただ自分らしくいることに忙しくするよりも、目覚める方が良いのです。考えやイメージの重なりを解き放つことは、夢から目覚めることによく似ています。そして、自己実現の目標は、夢から目覚め、今この瞬間をありのままに体験し、人生を新たに見直すことなのです。

 

 

 

BKYJ ① 修行の発展段階

BKYJ ① 修行の発展段階

2017年06月29日 08時16分38秒 | クリヤーヨーガ・ジャーナル
「ババジを求め、ババジになれ」 (クリヤーヨーガジャーナルより)

 我々は任務の途上にある。個人的にも、或いは(クリヤーヨーガの)グループとしても、サーダナ若しくはヨーガの実習に携わる修行者として、人間の性格とエゴを抑制すると同時に、クンダリニという我々の潜在的なパワーと意識を発見しつつある。この道の初期の漠たる段階においては、殆どの生徒は、肉体、生気体若しくは感情体における緊張や苦痛から逃れる目的で、様々な技法やポーズを練習しようとする。ヨーガの叡智に関する書籍の助けを求める者は数少ない。もし練習が規則的になるのであれば、修行者はより健康になり、エネルギーが増し、静けさを楽しむようになりはじめる。深い瞑想の中でマインドが静まった時に、存在の深い次元、即ち霊的なものを一瞥することがあるかも知れない。しかしそのような霊的な気づきが如何に素晴らしいものであったにせよ、恐れ、怒り、欲望、プライドといったものを含むエゴの現れが抑制されない限り、それらは逃げて行く。そこで、そうしたものが存在の苦悩の源泉だという気づきが起こってくる。多くの者はヨーガの本当の目的と約束(成就)を無視して、単に苦しみからの気晴らしを求めるだろう。他の者は、それが職場であれ、伴侶であれ、友人であれ、食事であれ、ライフスタイルであれ、そうしたものを変えることで苦しみから解放されるものと期待し、彼らの苦しみの原因となるものを避けようとするかもしれない。然しながら、賢明にして真摯な者は、エゴを浄化するプロセスを採用するだろう。このプロセスから導かれる変容は、修行者のマインドと生気体がどの程度魂と神霊に忠誠を誓い、エゴから遠ざかるかに依存している。

 エゴはそれ自身を浄化することが出来ない。それを実行できるのは、エゴの現れによって触れることの出来ないわれわれのハイアーセルフ又は魂だけである。しかし、どのようにそれを我々の意識の前面に押し出すのだろうか? 如何にその力がエゴに影響を及ぼすようにするのか? 我々の魂は、その権力の全てを大臣に委任してしまった立憲君主のようなものだ。何時国王である魂により、これらの権力が取り戻せるのか。間違いなく、ババジのクリヤーヨーガの五重の道(原文:Fivefold path即ち重層的に存在する「五体」と言われる、肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体すべてに働きかける手法)は、潜在意識を浄め、必要な集中力を養い、肯定的な感情体の心象を作り、叡智を見出す知的な能力を開発する助けとなる多くの技法を提供している。然しながら、我々の魂、または霊的存在は、修行者が内に向かって集中し、内在する超心的な神秘の光、「神性」の甘美な存在、「真理」「善」そして「美」を見出さない限り、マインド、感情、そして激情のヴェールの背後に隠れたままである。「グル」と「神」と「真我」は一つである。第一回目のイニシエーションで、クリヤーヨーガのグルであるババジと対話する技法を教えられる。このババジと交流する技法は、魂、我々のハイアーセルフ、またはシュリオーロビンドが呼ぶところの「神霊的な存在」をして、それと全く同一になるまで、より頻繁にエゴのヴェールの背後から現れることを可能にする。我々の魂との完全な一致は、通常かなり長い期間のサーダナ(ヨーガの修練)の後、初めて生じる。この(魂との)一致は、どんな状況においても存在する非常に大きな歓びによって特徴付けられる。彼(若しくは彼女、以後彼で統一)は、不死或は永遠であると感じる。彼は甘美な「神」の「実在」を感じる。

 しかし一方で、純化と「真我」或いは魂との一致に到る長期に亘る道程が完了するまでは、修行者は繰り返し内に向かい、集中し、その指令に耳を傾け、それらに従わねばならない。それは彼の性格の中にあって純化されるべき全てを表面に現す。あなたがそれである処の真の統治があなたを待っている。ただ単に「心に留めておく」だけでは十分ではない。「至上者」の僕(しもべ)となるよう志しなさい。怒り、プライド、妬みを現わそうとする衝動に耐え、恐れ、欲望、そして旧来の否定的な習性を手放すために「神」の助けを求めなさい。常に、そしてあらゆる場所で(神の)道具となるよう志しなさい。全ての人に「神」の美しい顔を見なさい。愛と歓びをもってあなたのハートを、それに合わせて高鳴らせなさい。マインドと生気体が静まるにつれてあなたの魂は前面に出て、それはあなたの人生を導くだろう。

 私の師(訳注:ヨーギラマイア)は我々に対し、「ババジを求め、ババジになれ」と頻繁に説いた。ババジとは誰なのか? あなたは自分が誰なのかを知る時ババジが誰なのかを知り、エゴの現れと自分を同一視することが止むであろう。ティルマンディラムにおいてこの状態は「トゥリヤティタ(Turiyatita)」即ち「トゥリヤ」を超えた状態として引用され、第三巻に詳しく説明されている。「トゥリヤ」という言葉は四を意味するが、ヨーガの文脈の中では、目が覚めている状態、夢を見ている状態、夢の無い眠りの状態の三つの状態を超えた意識状態を表し、そこにおいて魂は、肉体、生気体そしてマインドを通じて知識と経験を得る。第四の状態において、魂は絶対的な実在、宇宙意識、そして至福との統合もしくは同一性(一体感)を経験する。トゥリヤの中では、瞑想している神格との一体性に気付く。トゥリヤティタの中では、そのような気づきはない。これらの状態は「アヴァスタ」として知られていて、ティルムラル(訳注:ティルマンディラムの著者)はそのことについて第八巻で記述している。   

 パタンジャリはそれをヨーガスートラ(1-24)で、「イシュヴァラ」即ち「如何なる苦悩、行為、行為の果実、または内なる欲望の印象によっても汚されることのない特別な自己」と呼ぶ。苦悩(サンスクリット語でクレーシャ)は、我々の真の同一性に対する無知であり、エゴイズム、執着、反感そして死の恐怖である。行為の果実は我々のカルマだ。禁戒(社会的制約)と勧戒(修行者の遵守事項)を誠実に実行することで、人は苦悩を純化し、これまでに累積したカルマを滅尽する。彼はまた、ヨーガスートラ(1-23)で、「主(訳注:原文はLord)に対する明け渡しによって人はサマーディに成功する」と告げる。この明け渡しは、もしそれが我々の存在の霊的な次元に限定されるのであれば完全なものには成り得ない。それは必然的に、マインド、生気体(感情と欲望の座)、そして肉体と対峙しなければならない。それを如何に行うのか? 観察者の視点をもって永遠ではないものから永遠のものを、真実でないものから真実を、心と生気体と肉体の動きから「真我」を識別しなさい。それらから後ろに引いて立ち、単にそれらを観察していなさい。毎瞬ごとの観察が必要だ。何を手放すべきで、何を残すべきなのか決断しなさい。

 如何なる、そしてあらゆる状況においても「神」への明け渡しが、五体に対する統合ヨーガの手段であり究極の目的だ。「私の神そして私の全て」という言葉は、その心からの表現を集約している。修行者が「神」に対する明け渡しを行う時、「神」はご自身を修行者の人生に介入させ、全ての困難と弱さを取り除く手助けをし、その臨在の意識の中に喜びをもたらす。これが生じるためには、(1)修行者は自身の能力に対して自惚れがあってはならない(2)彼は心の奥底から、実在し、彼を愛し、その叡智によってあらゆることに全能である「神」と呼ばれる者が居ると信じていなければならない(3)修行者は、彼の魂そして究極的な安息の地として「神」だけに向き合わなければならない。この意識の明け渡しの状態においては、完全なる信頼の中で、自身に対する責任を解き放ち、全ての重荷を「神」に手渡すことで、何を行い何を感じようが、全ての行為は「至高の実在」に対する捧げものとしてなされる。修行者の習慣的な意識と性質は、この明け渡しに対する多くの抵抗と障碍を内に含む。人は留保無しで、「神」の唯一の導きに対して自身を放棄する必要がある。人がそのようにした事をどうやって知ることができるのか? シュリオーロビンドは、真に自身を明け渡した修行者の内面の気分を詳細に記述している。

 私は「神」を欲し、それ以外の何物をも欲しない。私は「彼」に自身のすべてを与え、そして私の魂が希む故に、私は「彼」に会って「彼」を悟る他無い。「彼」の御業が秘密であろうと、顕現したものであろうと、隠されていようと明らかであろうと、私はそれと、私の内にあって私を「彼」に到達させる「彼」の御業以外何も求めない。私は自身に都合のよい時や方法に拘らず、「彼」の時と方法ですべてを行うに任せる。私は「彼」を信じ、「彼」の意志を受け容れ、「彼」の光、臨在、そして歓びを絶えず希求し、「彼」に頼り決して諦めることなくすべての困難と遅れの中を歩む。全ては「彼」のものであり、私自身も「彼」のものである。何が起ころうとも、私はこの希みと自己放棄から離れず、それが実現するとの完全な信頼の中で歩み続ける。(オーロビンド 1972 587)

 つまり修行者のサーダナを通じて全てに責任を持つのは「神」御自身なのだ。全ては「神」によって可能となる、即ちハートと信頼と確信をもって自身を神に捧げるのであれば、そして仮にそれを直ちに完全に行うことができなかったとしても、信頼が深まるにつれてより多くの内なる助けと手引きが与えられ、「神性」の経験が彼の内で育まれる。もし疑問を投げかける心が活動を抑えて謙虚になり、明け渡しの意志が成長するのであればこれは完全に実現可能とならざるを得ない。(オーロビンド 1972、586-88)
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 もし自己放棄の力がそれほどまでに強力であるなら、どうして人はそれを果たせないのであろうか?

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 何故それがなされないのか? 人はそれについて考えない、それをすることを忘れる、或いは古い習慣に戻ってしまう。そして取り分け、内心、さらには意識下の隠された場所の裏側に、あなたの耳元で囁くこの内在する疑いがある・・・そしてあなたは、とても愚かしく、はっきりせず、バカなので、あなたはそれに耳を傾け、自分のことに注意を向け、全ては台無しになる(マザー 2004,257)
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 それで個人的な主導権は停止するのだろうか?そのようなことはない。通常の修行者の意識と意志はシッダであるヨギのように神の意識と一体化した状態からはかけ離れている。人は全ての好き嫌いと共に隔離されたエゴの意識の中で生活し続ける。従うべき必須の原則は、行為の果実もしくは結果を「神」に明け渡す(捧げる)ことで、さもなければ、人はただエゴを満足させる為に行為しているだけである。シュリオーロビンドは全ての行為において、人が保持し続けなければならない態度について述べている。

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 「神」は私の唯一の避難所だ。私は「彼」そして「彼」だけを信頼しそして全てのことで「彼」を頼る。私は完全に「彼」の「意志」に身を任せる。私は如何なる行く手の障碍や、絶望の暗いムードによっても、私の絶対的な「神」に対する信頼が決して損なわれることのないようにする(Mukherjee 2003、93)
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 然しながら修行者は、その努力が不必要だと感じたり、「神」が全てを達成してくれるのだと感じたりして、自己満足に陥ってはいけない。これはマザーによって非常に明確に説かれている。

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 然しながら至高の恩寵は、ただ「光」と「真理」の条件においてのみ働き、誤った考え(虚偽)や、無知のもとでは働かない。何故なら、もしそれが誤った考えの要求に屈するのであれば、それはそれ自体の目的を打ち砕くことになるからだ。(マザー 1972,1,3)

 全てのもの一つひとつに条件(訳者註:仏教でいう縁起のようなことか?)がある。もし或る者がヨーガの条件を満たさないなら、「神」の介入を求めることは無駄である。(Nirodbaran 1983,197)

 効果的な明け渡しが必ずしもすべての将来の嵐やストレスに対して修行者を守るものではないが、修行者が人生の嵐の只中にあったとしても、それは彼の精神(スピリチュアル)上の健康の絶対的な安全を約束してくれる。その道筋が、日が照り、バラの花びらがまき散らされていることを保証はしない。然しながら、「彼」が明け渡しを行った修行者を人生のあらゆる不幸にも拘わらず、彼の大切な霊的目標に導くであろう、ということは保障する。明け渡しを行った修行者はまた、不幸や苦悩は無駄ではなく、その意義が適時に明らかにされるところの霊性向上に必要な目的を達成するのに、神によって是認されたものであることを知る。明け渡しは、「神」は遠く離れてはいない、または彼の苦しみの中でもそこにいない訳ではなく、彼のもっと差し迫った困難の中でも修行者が神と一体になるよう導くための環境を整えながら彼のハートの中に坐していることを知り、且つ感じる。明け渡しはまた、全ての困難は、もし勇気、忍耐、そして明け渡しの精神の正しい態度で臨むのであれば、大きな霊的な利益をもたらすであろうことを知る。最後に、明け渡しは、ある将来の霊的な「善」に導く隠れた目的があることを知る。彼のマントラは、「常にそしてどこにおいても、あなたの『意志』がなされますように」から変わることはない。(Mukherjee 2003、101)
◇◇◇

 シュリオーロビンドは、魂または霊的な存在が目覚め、そして信仰、放擲、そして明け渡しによって五体全てにおける自己の変容を指揮するようになる四つの発展段階を示した。

第一段階:
 霊的存在は、内なる存在を覆うヴェールとマインド・生気体の動きの背後に隠れている。我々の存在の低次の部分は、魂が何を欲するのかに関心が無い。それらは欲望と感情、肉体的な安息の必要性、そして些細な好みや嫌悪に対して習慣的に反応する。極く稀に、霊的な影響が前面に出ることがある、それは霊的な生活、愛と「神」への明け渡し、言葉で言い表せない「真理」、「善」そして無条件の愛、やさしさ、共感、「至福」そしてバクティに対する憧れに気持ちが向いた時である。

第二段階:
 内なる存在、マインドそして生気体が、「魂を求めてそれに従うことを決めた時、即ち彼らの回心であり、彼らは霊的で神的な性格を身に付け始める」(Mukherjee 2003、112)。信仰心が徐々に高まり、「神」は恩寵をもって答える。彼(又は彼女だが、以後彼で統一)は内に向かい、徐々に外部の官能的な誘因の昔の「場」に対する興味を失う。信心、放擲、そして明け渡しを実施することは段階的に霊的存在の影響を受け容れ易くする。益々彼は、欲望、怒り、古くからの悪い癖、そしてそれ以外のエゴの現れを克服する力を感じるようになる。彼は既に起きてしまったことに対してくよくよすることを止め、過去を手放す。彼は本能的に正しいことを行うように導かれるが、それは道徳的な命令、しきたりまたは家族や親類の期待からではなく、彼が自分の内で何が真実で何が善であるかを知るからである。彼は抵抗があること、害を及ぼすこと、真実ではなく、誇張されたことを拒絶する。無条件の愛、優しさ、安らぎそして至福が彼の存在の状態となる。しかし彼は過去の思いや感情のパターンに戻るかも知れない、それは内なる存在の動きによって断続的に覆われてしまう。彼は目撃者であり、深く根差し、習性化した内なる動きを表面化させないよう継続的な努力を続けなければならない。

第三段階:
 霊的な存在が内なるマインドと生気体のヴェールの背後から前面に現れ、そこに止まる。それは信心、放擲そして明け渡しの修行(サーダナ)を継続的に指導する。それは何が変容されるべきか、何を手放し、純化すべきかを特定する。彼は常に助けられ、且つ導かれていると感じる。たといカルマによって腐ったトマトが彼の玄関口に置かれていようとも、「神」の至福と無条件の愛が彼の感受性を特徴付ける。彼は感情体、生気体そして肉体の次元において、彼の乗り物の主人である光輝に満ちた真我の気付きとして止まる。彼は、欲望や恐れを含む、内なる存在のより深い層におけるエゴの現れを識別して手放す。彼は自らの神性の無知に抵抗し、それを現わす全てを取り除く外科手術を行っている「神」の手のうちにある道具のように感じる。彼は共同創造者となる。日々の生活は奇跡で溢れかえる。彼は人生を、永遠の新しい喜びとして経験する。

 この段階においてエゴに対するマインド、生気体そして更には肉体の忠誠心は、内なる「神」に対する忠誠心に置き換えられる。彼は「成就」即ちシッディ(悉地)を求める。病んだ肉体または神経症のマインドにおける成就は、(本当の)成就とは言えない。識別智によって、これらの低次の道具を「神」の「御意思」を表現するように変容させる。彼は自己変容のプロセスに対する情熱を発達させる。この過程において、彼はそれまで隠されていたものを発見する。彼は変容のメソッドを経験する。

第四段階:
 この進化した段階において、霊的存在は細胞と潜在意識のレベルを変容させる。1926年から1940年にかけて、シュリオーロビンドとマザーは断食、睡眠、食事、自然の法則そして習慣によって意識下そして細胞レベルで、彼らの体を使った実験を行った。それは、より精妙で霊的な力が神性化を完成させるのに十分なように寿命を延ばす霊薬、カーヤカルパをシッダ達が使った文献に記述された事例とは異なり、時間との競争だった。マザーは言った。「根本的」な問題は、変容に向かってのこの競争(レース)において、この二つの内のどちらが先に到達するのか、即ち「神」の真理のイメージに肉体を変容させようとしている者なのか、それとも徐々に分解して行く(老いた)肉体の中の古い習慣であるのかを知ることだ(Satprem 1975,330)。

 その作業は、オーロビンドが言う処の“細胞のマインド”、“まさに細胞、分子、微粒子の体の奥まったマインド”のレベルで進行した。このボディーマインド(の存在)は明白な真理であるが、(それ自体の)判り難さと、過去の行動に機械的に執着し、そして容易に忘れ去られ、そして新しいことを拒絶する(性癖を有する)ため、我々はその中に超心の力が浸透し、肉体の機能を変容させることにおける、主だった障碍であることを見出す。一方で、一旦効果的に変容すれば、それは物質の「本性」における超心の「光」と「力」で安定した最も貴重な道具の一つとなるだろう(オーロビンド 1969,346)

 細胞の下準備には、肉体と細胞の意識が拡大してそれ自体を普遍化することを許容するための精神的な沈黙、生気体の安らぎそして宇宙意識が必要とされた。私の研究で判ったことだが、ババジ、シッダ達(訳注:18人のシッダを指す)、ラーマリンガそしてシュリオーロビンドのような(人類の)進化を導くリーダーは、人間的な性質が全てのレベルで神の「真理」のイメージに変容するという霊的存在の第四段階を完成させる為には、「人里離れて隠棲すること」(訳注:原文はisolation)を必要としている。このことが、シッダ達において起こったように個人のレベルで生じるにせよ、またはシュリオーロビンドによって予告されたように人類の集合的な魂の飛躍という形で起きるにせよ、超心の下降によるその結果は、未だ解明されていない問題である。

 マーシャル・ゴヴィンダン・サッチダナンダ

BKYJ ② グル・プルニマー

BKYJ ② グル・プルニマー

2017年07月21日 09時19分51秒 | クリヤーヨーガ・ジャーナル
2004年論説  By Durga Ahlund and M.Govindan

   私たちを非実在から“実在”へ導き給え
   私たちを闇から“光”へ導き給え
   私たちを死から“不死”へ導き給え

 グル・プルニマーは修行者が“グル”を祝う祭りです。今年私たちは、ケベックのアシュラムでそれを祝いました。それは魔法のような晩で、満月は薄い黄色に輝き穏やかな夜でした。その晩遅く恐ろしい稲妻を伴った嵐に襲われ、私たちを恐怖に陥れました。

 プルニマーは満月の日を意味します。グル・プルニマーは年間を通じて月が最も大きな日です。それは通常7月の、日が最も長い夏至の後にやってきます。

“グ”は闇を、“ル”は光を意味します。従って“グル”は闇を駆逐する者を指します。グル・プルニマは、太陽の光線が初めて地球に到達した日だといわれています。その日は叡智と光の日です。タマソ・マジョティル・ガマヤ・・・私たちを闇から光へ導き給え。従って、グル・プルニマーはスピリチュアルな年の始めなのです。それは“チャトゥルマス”即ち四か月にわたる温暖でスピリチュアルな活動の聖なる期間の始まりを示します。

 この日修行者は彼らの献身と修業の成果を感謝と愛の形で大師(グル)に捧げます。全ての弟子は、もっと修業に励み、グルの教えをより深く理解し、グルの恩寵を受けるに値するグルへの奉仕を行う誓いを新たにします。グル・プルニマーの日に、私たちはグルの祝福を求めます。この日私たちの心、プラーナそして「真我」を通してグルに集中することで、私たちはグルへのダルシャンを経験できます。

グルとは誰ですか?
 グルは弟子に対して、霊的修業の道へのイニシエーションを授け、彼らを解放(悟り)へと導く霊的な指導者です。グルは、全ての絶対的な根源である「それ」(That)と同一であるとの悟りを開き、その悟りに向けて衆生を導く責任を引き受けた者です。従って神はグルの姿の中に顕現されています。肉体としてのグルを持たない人々にとっては、神御自身がグルなのです。

時として肉体としてのグルは物理的な象限を離れて絶対的な実在意識、そして至福と融合します。彼らは引き続き真の修行者を助けることが出来、またそのように意図します。しかしグルは神の恩寵を与える力として精妙な姿でとどまります。グル、神、真我、全てに行き渡る意識、シャクティは全て同じ一つのものです。グルの原理とは、それによって「自然」(訳注:被造物全て)が私たちの内部にある、そして外部にある両方の宇宙のすべての生命が私たちを無知から叡智へ、エゴイズムから悟りへと至るのに必要なあらゆる手段によって創造し、維持しそして破壊する原理なのです。それは宇宙の創造以前から存在するので時間と空間を超越しています。グルの原理は、全ての者の中に内なる「真我」として存在していますので、私たちが外部のグルを崇拝する時、私たち自身の「真我」をも崇拝することになるのです。それは人格を持たないシャクティであり、サーダナ(ヨーガの修行)を最大限展開させるために必要なあらゆるものを創り出す自然に起きる力なのです。それは常に利用可能なので、外部のグルより強力です。

内なるグル
 究極的にいつの日か弟子は外部のグルを越えて内なる霊的な原理としてのグルを発見しますが、悟りを開くのを急ぐあまり、西洋の弟子たちはしばしば早まって外部のグルを捨て、その後危険に晒されることがあります。

 平均的な個人にとってアクセス可能な唯一の内なるグルはエゴです。エゴは私たちを無知に留める原因であり。弟子を無明、混乱そして究極的には絶望、自己欺瞞の中に、より深く押し込めます。

グルの力:グルは彼の力と働きによって理解できます。
1. 秘儀の伝授者としてのグル
  グルは弟子の解放と光明化を開始する秘教的な知識と交信することで、弟子が霊的な次元に生まれる手助けをするという役割を引き受けます。
2. 発信者としてのグル
  グルは闇を駆逐するものとして重要です。つまりアーチャリア(師範)がするように、単に支持を与えたり情報の伝達をしたりするだけではなく、む  しろ智慧を放出し、そしてまさに彼のその本性によって霊的な真理を明らかにします。彼は弟子の霊的な発展段階を開始させ、更にはそれを鼓舞しま  す。グルが完全に解脱していない時には、その発信力は、主として(それだけではありませんが)教師としての意志と努力に基づきます。神の恩寵が  そのようなグルを一時的な媒体として利用することもあるかもしれません。サットグルとは、完全な悟りを開いたグルで、その一つ一つの言葉、仕草  そして単に同席するだけでも神を表現し、顕現するとされています。その(力の)発現は自然で絶え間がありません。
3. ガイドとしてのグル
言葉による指示により、生きている者の手本として、聖典に対する口頭での説明または注釈により、それらの更に深い意味をもたらします。グルは、  彼又は彼女自身(以後彼で統一)の教師から口頭で受け取った言い伝えを、そして更にまた彼自身の経験と悟りに照らして、文字で書かれた教えに命を吹き込みます。
4. 啓蒙家としてのグル
  「グ」は闇を、「ル」は除去を現わします。グルとは霊的な闇を取り除くものであり、自身の「真我」に盲目である人たちの視力を回復させます。こ  の力は、グル自身の悟りの程度に依ります。
5. 因習を妨げるものとしてのグル
  グルは従来の(因習的な)価値や目標の流れに逆らって進みます。彼らのメッセージは過激です、即ち私たちに気付きをもって生きること、自身の動機をよく吟味すること、利己的な激情を克服すること、無知を克服すること、他者と平和に暮らすこと、人間の性質の最も深い核心即ち霊性を悟ることを私たちに求めます。これは、従来の価値を追い求める為に自分たちのエネルギーを全て注いでいる人たちを混乱させます。
6. 弟子としての身分と、エゴを破壊する者としてのグル
  グルの悟りに導く叡智の伝播に浴するため、人は「弟子の身分」として知られる、変容に資するグルとの強力な関係にならなければなりません。これは自己変容に対する深いコミットメント(約束)と、それによってマインドが従来の癖から抜け出す一連の修行に対する服従、そしてグルを単に個人として見るのではなく、実質的には宇宙の機能としてみなければならないという愛情深い思いやりを含みます。グルは人間関係に興味があるのではなく、弟子を至高の真我の悟りに引き上げるために、弟子の身分という幻想を取り除くことに興味があるのです。
7. グルの権威
グルのこの機能は、叡智(洞察力)とカルナ(慈愛)によって効力を持つもので、それ自体は有限である人間の個性というよりむしろ、真我を目指す超個人的な能力です。もしグルが単に慈愛に満ちているだけであれば、彼は弟子を幻想から導き出すことはできなかったでしょうし、弟子も今の彼の現状に対する愛情としてその慈愛を誤って解釈するでしょう。グルは弟子を彼の真の性質、即ちより高次の真我において愛しておられるのです。もしグルが単に賢いだけであり、慈愛を欠くなら、弟子は恐らく自己変容の要求の下で挫折してしまうでしょう。弟子というのは、誤解したり、自分の感情を投げかけたり、幻想を抱いたり、グルとの建設的な関係を構築するのを阻害したり遅らせたりする思い違いをしがちなものです。

グルとの繋がり、明け渡しと恩寵
 ヨーガの伝統は精妙体の中に様々なグルの座を記述しており、その最も強力なものはサハスラーラです。内なるグルは形がなく、拡張したハートの中の静寂と無限の空間として経験されるかも知れません。私たちの内なるグルはサハスラーラに住み、マントラを用いることで近付き交流することができます。あなたが、オーム・クリヤーババジ・ナマ・オームのマントラを唱える時、同時にマントラについて瞑想しなさい。マントラシャクティです。それは実に強力です。グルはマントラを通じて彼のシャクティを放出し、シャクティマントラを通して弟子の中に入ります。シッダ達の好む礼拝の形は、彼らの頭頂をグルの両足の上に置くことです。

マントラの根源はグルの言葉です。マントラはグル自身の姿です。

 明け渡しは非常に重要です。もしあなたがグルに自分自身を明け渡すなら、あなたは何かしらのイニシエーションを受けるでしょう。明け渡しによって人は「宇宙の実在」と一体になり、膨大な恩寵を引き出します。恩寵は全ての障碍を取り除き、それなくしては完全な(神との)統合は達成されません。明け渡しと恩寵は互いに補完し合っているのです。弟子は、彼の修行とグルへの献身に正比例して、グルから流れ出る霊的なエネルギーの強力な流れを吸収することができるのです。グルは彼の弟子に配分するために、至高の存在から受け取った霊的なエネルギーの無限の貯蔵庫を持つのです。

 弟子がグルのマントラを唱え、グルについて瞑想するとき、そのグルが肉体としての存在であろうとなかろうと、グルは弟子から流れ出来る崇高な思念の流れを感じます。グルはその内なる視力によって、超意識の拡大する中での崇高な思念の波動によって作り出される、目も眩むような見事な光の線を明確に見ます。

あなたのグルと、あらゆる形をとったグルを礼拝しましょう。

 深い愛情をもってグルのことを考えましょう。グルを私たちのハートの中に保ち、原則として「彼」または「彼女」と共に在って、波長を合わせて置くことが重要です。

・全てに行き渡っている聖音オームであるグルを礼拝しましょう。
・サット・チット・アーナンダで示されるグルを礼拝しましょう。
・全ての無知の破壊者であるグルを礼拝しましょう。
・至高の「自己意識」として確立されたグルを礼拝しましょう。
・「神」の恩寵を下賜する者としてのグルを礼拝しましょう。
・至高の知識、知性、記憶、錯覚であり、全ての原因と結果であるグルを礼拝しましょう。
・全ての存在の中にあり、全ての存在が「彼女」(訳注:大母神のことか?)の内にある「宇宙我」としての「彼女」を悟ることを可能にするグルを礼拝しましょう。
・私たちの直観の小さな声をもって語りかけてくるグルを礼拝しましょう。
・全てのグルの中のグルであり、私たちの魂は全ての存在の魂であることを悟ることを可能にしてくれるグル、クリヤーババジ・ナガラジを礼拝しましょう。
・彼の無限の恩寵と力をもって、彼の信者を夫々の段階に導き、彼の眠っている肉体的、知的なエネルギーを輝かせ、超越的な肉体の歓びと至高の心の幸福を私たちが悟ることを可能にし、究極的には私たちを至高の実在との統合に導いて下さるババジを何度も礼拝しましょう。彼の恩寵が私たちすべてにもたらされますように。

グルについての瞑想
・あなたのマントラを唱え、あなたが選ぶグルの姿について瞑想し、グルの神聖な御足を礼拝しましょう。グルの御足は、精妙体の中に於けるグルのエネルギーの現れです。両足とサンダルにはマントラの解放する力が入っています。
・あなたのグルの容貌と特徴を心のうちにとどめ、それを何度も思い出して彼の教えと指示に愛情を込めて従いましょう。そうすることで、修行者は彼の神聖なサットグルの崇高な特徴と恩寵を想像し、超越的な楽しみ、喜び、平和そして知識の祝福を受けることができるようになります。
・形のあるグルに対する瞑想。そのようなグルに対する思い(献身)は、グルと弟子の関係を強力にする効果的な方法です。
・もう一つの瞑想法は、あなたがグルについて瞑想する場合、彼があなたのあらゆる場所にいると想像することです。あなたの体をグルで溢れ返らせなさい。丁度布が糸で織られていて、その全ての糸から布が出来ているように、あなたはグルの中に居て、彼があなたの中に居ます。このようなヴィジョンでグルとあなたとが一体であると考えなさい。水差しがその素材である粘土と同一であるように、ババジはあなたと異なりません。
・あなたの心の中で、グル・オーム、グル・オーム・・・と繰り返し唱え続けなさい。グル・オームと唱え続け、あなた自身がグルであるように、あなたの肉体の全ての部分にグルを植え付けなさい。

私たちにグルが必要ですか?
 殆ど例外なく、この世に転生を繰り返す全ての魂にはグルが必要です。何故なら彼らは二元性の世界に執着し続けたままだからです。好きと嫌い、獲得することと失うこと、高い低い、善と悪といった考えは私たちを絶え間なく悩ませます。自分は心・体であるとの考えが非常に強いので本来の自己認識に対するエゴの無知の罠に人々はひきこまれます。従って実質的に全員が、それが外面的なものであれ精妙体であれ、真我を悟らない限り、その悟りを得るまでグルの恩寵と導きを必要とします。

 グルとグルの教えは一つであり、同じです。真の霊的な進化はその教えを適用することを通じてもたらされます。スピリチュアル系の本を読むことである技法が指し示されるかもしれませんが、それらは人が限られたエゴの視点を明け渡すときの本質的な経験または聖なる恩寵をもたらすものではありません。グルに処方されたサーダナの修練、カルマヨーガまたは無私の奉仕活動(聖典等の自習そして献身)を通じ、人を二元性に縛りつけるサンスカーラ、または性癖を克服する進歩が達成されます。

自分のグルを見つけたことをどうやって知るのでしょうか? 
 あなたはグルに対して深くへりくだり、誠実さそして崇敬の念をもって近付くべきです。あなたはグルの教えに対して熱心で受容的な態度で接するべきです。それが肉体の形をとっていようが精妙体であろうが、あなたのグルと一緒に居ることで心の平和を感じ、あなたの疑念が晴れるのであれば、あなたは「彼」をグルとして受け入れるべきです。もしあなたが最終的に誰かをあなたのグルとして受け入れるのであれば、それはずっと以前に「彼」があなたを既に弟子として受け容れていたのだということを、あなたは認識すべきである、と言われています。さもなければ、あなたは「彼」をグルとして受け入れることは決してなかったことでしょう。あなたが答えを得るために疑問を口に出すことすら必要がなくなった時、あなたは自身のグルを見つけたのだと知りなさい。どこからともなく、あなたは知る必要があることを正確に聞くことになるでしょう。その時まで、グルを見つけ出す最高の、いや恐らくは唯一の方法は、熱心に自身を(その日のために)準備しておくことです。弟子の準備が整った時にグルが現れると言われています。ですから、あなた自身が弟子として修業またはサーダナそしてグルの教えに専念しなさい。こうしたことがどのようにあなたに効果をもたらすかを見守りなさい。グルとグルの教えは同じです。しかし本当のグルは、彼の人間ではなく、常に教えを強調するものです。
 霊性の知識はグルから弟子に伝えられます。グルの教えは「ウパデシュ」と呼ばれますが、それは「間近に」という意味です。ウパデシュの対象は、遠くにあるものを間近に見せることです。グルは、弟子が遠くにあって彼自身とは異なると思いこんでいるブラフマン(絶対的実在)が近くにあり、彼自身とは異ならないと言うことを悟らせます。弟子は真摯な自己探求とグルへの奉仕により、グルによって与えられた教えの献身的な修練を通じてヨーガを学びます。
以上

BKYJ ③ アルパダイ

BKYJ ③ アルパダイ

2017年10月29日 10時20分44秒 | クリヤーヨーガ・ジャーナル
 
BKYJ 2017 Fall
 
By M.G.サッチダナンダ

アルパダイ(他者に「道」を示す)

 あなたは他者の手助けをする必要性または責任を感じているだろうか? クリヤーヨーガの修行者として、如何にしてあなたはそれが可能なのか、或いは為すべきなのかを自問しているだろうか? あなたは、クリヤーヨーガにおけるあなたの知識と経験が、家族、友人、仕事の仲間或いは知人の悩みを軽減することができるか否かを自問しているだろうか?

 タミールヨーガのシッダの著作を通じて、彼らが事例、心情、性別、宗教或は国籍を問わず、一人ひとり全員に「道」を示すというアルパダイの考え方に言及していることを見出すことができる。それが強調しているのは、自分自身の悟りによって あるいは自分が人類を救済するという誓いである。それに非常に似通ったシッダの格言がある。それは、「私が享受する至福が、すべての者に与えられますように」というものだ。苦悩からの真の解放は孤独の内にはないということを彼ら(シッダ達)は真摯に感じていた。完成若しくはシッディ(悉地)への道を示すことは、最も優れた利他行である。彼らは、世界の終りの無い悲しみから解放される道をすべての人に示すことを求めた。彼らの願いは、多くの者が一つの永遠の、すべてに関連し、全てを統合する「自己」の知識を獲得することだ。

 「クリヤーヨーガの誓い」はこのアルパダイの考え方を表現したものだ。その中で我々は、自身の利益の為のみならず、すべての人の利益の為にクリヤーヨーガを実践することを誓う。「地上の全ての者が自らの目的を達成できるように、わたしは自らの存在と歓びを完全にクリヤー・ババジに永遠に明け渡します。」「静けさは、すべてのものを明け渡すことにあり、霊は静けさを求めます。私が全てのものを明け渡さなければならないのなら、同朋のためにすべてを明け渡すことが最も良いことです。」 私が新たな秘義参入者(イニシエーション受講者)にしばしば言う通り、この「誓い」を伝える時、たとえクリヤーヨーガの修練をやる気にならない日があったとしても、とにかく修練を続けなさい。なぜならあなたが修練を行えば、周りの人々は修練を行うことがはるかに容易に感じるから。

 誓いは続ける。「私は、病める者の慰めであり、癒し手、僕です。私は、食べ物と飲み物の雨で飢餓と渇きの苦しみを癒します。終末の飢饉には、私が飲み物、食べ物になります。」 肉体的、情緒的、精神的或は霊的に病んだ人々とヨーガの教えを分かち合うことによって、あなたはこの「誓い」を同様に充たす。如何にヨーガがあなたの助けとなったかということに関するあなたの愛と感謝を分かち合う為に、教師として訓練されなければならない訳ではない。この記事の最後に、あなたが眼にするように、あなたがそれを実行に移す多くの方法がある。それを表現することは、あなたのヨーガに対する理解を深めることだろう。また以下に述べる通り、それを実行することはあなたのヨーガの修練の形となり、あなたの内にある不快感の多くの原因を克服し、「神」またはあなたのハイアーセルフの道具として自身を明け渡すことを可能にする。

 ヨーガのシッダ(達人、成就者)たちは、すべての存在の福祉、幸福そして連帯意識を確立しようという愛の願望を持つ。愛は人生の目的であり、手段であり、到達点だ。シッダ達は言った。「anbu Sivam」、即ち、「神は愛である」と。神性を悟る為に、生まれもったエゴとそこから顕現する執着または欲望と反感または恐れなど、人間の不完全さから解放されなければならないと心底から信じていた。霊的向上の道は一つであり、内面に向かう為には一人でいる時間を必要とするが、人間の性質を変容させるには、自身の不完全性に気づく必要があり、それは人の影のように、自身で見ることはできない。もしあなたが一人で生きていたら、あなたは他者より優れている、或いは完全であるとさえ思うかもしれないが、他者と接するにつけ、あなたの欠点や角(かど)が明らかになり、それらが丸くなることすらある。

 タミールヨーガシッダのマントラ、「シヴァヤナマ」は単なる哲学的な概念とか秘教的な道具ではなく、社会的な概念でもある。「ナマ」とは離欲或は献身を意味し、「シヴァ」は至福(アーナンダ)を意味する。「アヤ」は成果や結果を意味する。この「シヴァヤナマ」という語は、「献身の結果は至福である」との意味だ。シッダ達は献身の内に至福を感じ、彼らは献身を奉仕の機会と考えた。彼らにとって奉仕と仕事は自身の「真我実現」と共に開始する。つまりシッダ達の社会に対する関心が「真我実現」の別の方法を与えたのだ。シッダ達の神秘体験は、我々に社会奉仕の新しい概念を示している。

アルパダイの肯定的及び否定的側面

 他者に道を示すということは、何を為すべきか、何を避けるべきか、或いは何を為さざるべきかを含む。積極的な側面は、次のことがらを共有することを含む。それらは、ヨーガの手法、禁戒即ち社会的な制約事項または倫理原則(非暴力、真実、貞操、不盗、不貪)、ヨーガシッダの叡智の教え、彼らの食事療法そして健康的な生活の推奨事項などである。例えば、なぜそして如何にあなたの生活に肯定的な影響をもたらしたそうした手法、原理、教え、推奨事項を見出したかを他者と話し合うことで補足される。多くの科学の分野におけるそれらの貢献もまたそれらの社会的な使命の肯定的な側面を例示することにもなり、我々も同様に行動したいとの期待を抱かせるかもしれない。

 アルパダイの否定的な側面は、誤った信念を生じさせるところの何を避けるべきかを共有することが含まれる。彼らの文献の中で、カースト制度と同じく外部での儀式を行うこと、寺院での礼拝を重要視することを避けるよう推奨している。というのは、それらがエゴイズムから生じた癖や傾向を純化するために必要な努力を妨げると共に、瞑想とクンダリニーヨーガを通じて内なる神性を見ることをも妨げるとの理由からだ。組織化された宗教制度も心理的な錯覚を作り上げる。シッダ達は、現世を放棄しようとするより、人間的な不完全さから逃れる自由を楽しみながら、人類の向上の為に彼ら自身を捧げた。彼らの教えは、社会の通念というよりヨーガの知恵から生まれた世界規模のヒューマニズムに対する新たなパラダイムを提供している。

感謝、善意、感情移入、共感そして同情を養う

現在の物質主義的な消費文化において、人の最も深い価値観を分かち合ったり、苦しんでいる人たちに対する手助けを行ったりすることが出来ず、他者との精神的な隔絶感を味わうことはいともたやすい。結果的に、他者とアルパダイ即ち真理への道を分かち合うことについて、人は不適格だと感じるかもしれない。そのような孤立感と不適格性の感情を克服するため、感謝、善意、感情移入、共感そして同情の感情を漸次育んでいくことを私は推奨している。

感謝とは、あなたがゴールに到達することに成功し、より優れた人間になり、あなた自身の目的を理解する手助けとなった夫々の人と全てのものに対する認識に伴って生じる愛の感情である。究極的にそれは、それらの摂理の源が神と同一であると認識することだ。それを育むことは、憤り、欠乏感、自暴自棄、孤立感そしてあらゆる形態の欲望と恐れを駆逐する。あなたの感謝すべきことを数えること、或いはコップが半分「から」なのではなく、半分充たされていると考えることで、日々それを練習しなさい。そうすることで、あなたは他者に対してより愛情深くなり、快く与えようと感じるようになるだろう。

善意とは、必ずしも彼らがどう感じているのか判らなくとも、他人の幸福を願うことだ。批判したり裁いたりするよりは、彼らを祝福しなさい。それは個人に対して行うというより全世界に対して行うこともできる。

感情移入は他者が感じていることを理解することだ。あなたは悩みを見つける。或いはあなたは過去に同様の経験をしたかも知れない。悩みによって感情的に突き動かされ、同情を惹き起こすかも知れない。

共感は感情移入プラス善意だ。あなたは彼らがどのように感じているかを知り、そして彼らが幸福になることを望む。あなたは悩める人の幸福を望むと表現するような仕方で行動するよう突き動かされる。

幸いなことに、我々の進化に対する社会的な要請のため、人間には共感の感情が本来備わっている。他人に対する共感の能力を高めるため、彼らの過去とそれが彼らをどのように作り上げてきたかを想像しなさい。胸が張り裂けるような、どんな状況に彼らが直面したのか? 彼らの現在の気持ちの状態のなかで、今彼らの中にいることはどのようなことなのか想像しなさい。

あなたが心地よく感じる範囲を拡げる

 あなたは他人に道を示すことで不安を感じるかも知れない。心配、恥じらい、悲しみそして臆病、自尊心の欠如といった心の習性が、あなたが手を差し延べる妨げになるかも知れない。不快であることに心地よく感じるため(これは典型的なヨギの苦行のスタイルであるが)、ここにあなたが心地よいと感じる範囲を拡げるいくつかの手法を示しておく。これらを、例えば他者との夕食の会話など、あまりリスクのない場面で使うことから始めなさい。

 心地よいと感じる以上に長く、目を合わせていなさい。
 エレベーターの中で、普段以上に他者の近くに立ち、そこから動くことに抵抗しなさい。
 全く見知らぬ人と、決まった回答のない質問で会話を始めなさい。
 内面の不快なことは、我々の頭脳の生き残りのためのメカニズムから来る通常の副産物だと心に刻むことで、「不快」という烙印を剥がしなさい。
 否定的な考えに関しては、それらは精確ではないかも知れないし、壁の落書きのように否定的に見ることによって歪められていると気づくことで、中立化させなさい。
 あなたは多くの要素をみのがしていて、その内の幾つかは肯定的なものだと考えなさい。例えば、他人のボディランゲージは、その人が前の時間に生じたことに対する反応かもしれないと。「私の」心配事として見るのではなく、それらを「不安な感情が存在する」といった具合に、個人的要素を除きなさい。
 現実を書き換えなさい。例えば、あなたたちが共有していることについて他人が疑問か困惑を表明したら、自身に問いかけなさい。彼らの反応はもしかしたら良いものではないだろうか? 如何にあなたの創造的な心が肯定的な回答を創り出せるか見てみなさい。

責任の放擲

 この記事の冒頭に、私は次の質問をした。「あなたは他者の手助けをする必要性または責任を感じているだろうか?」 ヨーガの知識を分かち合う必要性は愛から生まれるかも知れないが、上記で述べた通り、他者と真理への道を分かち合う責任を感じることは、何度となくあなたの心を、そのための戦略を考え出したり、他者から来ると考えられる結果や反応について心配したりすることに費やすのであれば、精神的な不快感をもたらすかもしれない。人間として我々は不確実なことに対する許容度は低く、これが不安を生むことになる。不安は如何なる場合も、あなたがそこで完全に落ち着いていることの妨げとなる。それはまたあなたの自信を弱める。従ってあなたが他者と真理の道を分かち合う時、彼らの反応を精確に読み取って注意深く対応できるよう十分な用意をしておく必要がある。不安、落ち着きのなさ、そして自信の欠如は直接あなたのボディランゲージとして、そしてあなたの思いやりを伝える能力に現れてしまう。

 この自信のなさの問題は、結果や成果に対する責任を「放擲」することによって解決することができる。おそらくあなたは、如何にこの会話又は話し合いが、他者の人生に影響を与えるか決して知ることはない。それはその後生じることのどんな連鎖をスタートさせ、或いは付け加えていくのか、ただ神、グル、ババジ、宇宙にあなたの心配事を差し出しなさい。進むがまま神に任せなさい。これがカルマヨーガの説明である。即ち、技能を用いながらも、結果には執着せず、行為者としてではなく、(神の)道具として行動することである。自動的に結果に対する不確実性は、より不快ではなくなり、あなたはそれに影響されなくなる。

道を示す際に推奨される方法

1. 他者を会話に引き込み、クリヤーヨーガとその知恵の教えに対するあなたの情熱を話しなさい。その間、他者の話をよく聞いて、良く考えた後に回答し、他者を攻撃することなく、ためになることだけを話しなさい。
2. あなたが既にクリヤーヨーガについて話をした相手に対しては、我々のウェブサイトに掲載された過去のクリヤーヨーガに関する記事を送りなさい。
3. 誰かが本を与えてくれたことで、いかにあなたのクリヤーヨーガの道が始まったかを思い起しなさい。クリヤーヨーガに関するあなたのお気に入りの本を贈呈しなさい。どの本を贈るのかについては、我々のウェブサイトを参考にすること。
4. 18のポーズの幾つかと、基本的な瞑想の技法を教えることを申し出なさい。我々が出版したババジのクリヤー・ハタヨーガの本(リラックスと若返りのための18のポーズと「道を照らす光」)を参考として使いなさい。
5. 我々の通信教育講座を薦めなさい。
6. クリヤーヨーガのイニシエーション受講者の各地方の会議に参加するか、さもなくば地方の会議を立ち上げることに協力しなさい。
7. 実例をもって教えなさい。言行一致。
8. 我々のウェブサイトにある本を自ら勉強することで、他人と分かち合うことのできるインスピレーション、叡智そして知識を求めなさい。そのために本を読み返しなさい。それらについて「アルーパ・ディヤーナ」の手法で瞑想することで、自分のものにしなさい。苦しんでいる人達と叡智を分かち合う時、それを思い起しなさい。今サンカルパ即ち、愛と叡智とによって、あなたのババジのクリヤーヨーガの道を上手に分かち合うとの意図を表明する誓いまたは自己暗示を創り出しなさい。
以上

BKYJ ④ ババジのクリヤーヨーガから如何に最高の成果を引き出すか?

BKYJ ④ ババジのクリヤーヨーガから如何に最高の成果を引き出すか?

2018年01月28日 09時59分11秒 | クリヤーヨーガ・ジャーナル
BKYJ 2018 Winter
By M.G.サッチダナンダ

 この問いかけに対する簡潔な回答は相乗作用であり、ババジのクリヤーヨーガの初心者であれ20年以上修練を続けてきたものであれ、すべての修行者にとって重要なことである。相乗作用は二人若しくはそれ以上の人数、或いはものが、夫々個別に生み出すことの出来る能力以上の結果を出そうとして一緒に働いた時に生じる。二三の実例を挙げると、相乗作用は組織、種族、良い結婚によって起きる。また、ババジのクリヤーヨーガの五重の道でも起きるが、それらはクリヤー・ハタ・ヨーガ、クリヤー・クンダリニ・プラーナヤーマ、クリヤー・ディヤーナ・ヨーガ、クリヤー・マントラ・ヨーガ、クリヤー・バクティ・ヨーガから成る。長い回答は、これらをそれぞれ検証することで理解される。

 物理的な肉体において、クリヤー・ハタ・ヨーガはアーサナ(リラックスの為に肉体のポーズ)、バンダ(筋肉の締め付け)、ムドラー(心理物理学的な身振り)を含み、これらは肉体の健康、安らぎ、主要なナーディ(気脈)とチャクラ(エネルギー・センター)の覚醒をもたらす。ババジは、順番にそして対で教えられる特に有効な18のポーズを選んだ。我々は肉体それ自体を気にかけるべきではないが、「神」の乗り物或いは「宮」として大切にすべきである。

 生気体において、クリヤー・クンダリニ・プラーナヤーマはあなたの潜在能力と意識を目覚めさせ、脊椎基底部と頭頂の間にある七つの主要なチャクラにプラーナを循環させる強力な呼吸の技法である。それは七つのチャクラそれぞれに眠っている能力を目覚めさせると共に、存在の五つの象限すべてであなたを活性化させる。

 メンタル体において、クリヤー・ディヤーナ・ヨーガは心を支配する科学的な技法を教える漸進的な一連の技術であり、それは潜在意識を浄め、集中力と感情の清澄さ、創造力を高め、知的で直観的で創造的な能力を目覚めさせ、神と合一した無呼吸の状態であるサマディと「自己」実現をもたらす。

 知性体において、クリヤー・マントラ・ヨーガは、直観、知性、チャクラを目覚めさせる精妙な音の静かの心の中の繰り返しである。マントラは自己中心的な心の中のお喋りの代わりとなって、大量のエネルギーが知性体に蓄積される。マントラはまた、潜在意識下の傾向や癖を浄化する。

 霊体において、クリヤー・バクティ・ヨーガは「神」に対する魂の向上心を養う。それは無条件の愛と霊的な至福を目覚めさせるための献身的な行為や奉仕を含んでいる。更に聖歌の詠唱や歌、儀式、巡礼そして礼拝をも含む。あなたが全てのものの中に「最愛の人」を認識するにつれ、徐々にあなたの全ての行動は甘美さに満たされるだろう。

 これらの内のどの方法による修練も、あなたが無視したり、理解したりしていないうちに、他の種類に影響しているということを忘れないことが重要だ。従って、もしあなたが上記の内のいずれかに必死に取り組んでいるのなら、またはあなたが最早進歩していないかのように感じるなら、この記事は、相乗作用の原理を適用することで、あなたの修練がどれほど利益を得ることが出来るかを説明することになろう。我々の最も神聖な存在の次元、そしてあなたが全ての見かけ上の相違を超越し、すべての良きものが発するところの霊性から始まって、これが如何に展開するかを考えることは役に立つだろう。

クリヤー・バクティ・ヨーガの相乗作用
2017のクリヤーヨーガ・ジャーナルの春季号に、「バクティ・ヨーガの七つの形態、愛と献身の道」という記事を書いた。バクティ・ヨーガにおいて、あなたは「神」との関係を成長させる。「神」とは誰なのか? あなたは崇拝するあらゆる姿での「神」、例えばイエス、クリシュナ、シヴァ、仏陀、ババジ、聖人を想像するかもしれないし、絶対的な実在のような人格を持たない至高の実在、「意識」、至福、ブラフマン、思考の恩寵の光を想像するかもしれない。この「神」との関係は、「私は誰なのか」というあなたの考えと共に進化するだろう。当初「神」は離れた処にいるように見えるか、あなたのある望みを叶えてくれるよう祈る対象と思えるかもしれない。スピリチュアルな教本や「神」を体験した聖人の説明を学習することは、この、「神」に近付き、親しくなるという過程の中であなたに希望を与えるだろう。

バクティ・ヨーガの九つの形態とは、
1. シャラヴァナ:聖典や神聖な物語を聞くか、読むこと。バガヴァッド・ギーター、ラーマーヤナ、パタンジャリのヨーガスートラ、ウパニシャッド、ヴォイス・オブ・ババジはあなたが神を愛するよう導き、動機付け、あなた自身を浄化し、こうした本の中に描かれた気高い英雄があなた自身の手本となるだろう。特に「神」を求め始めた初期の段階において、これらの物語や教本は、古い習慣、記憶、癖から生じる抵抗を克服する助けとなることができる。
2. キルタナ:一人またはグループでの成果の詠唱、神の讃美、献身の歌。目的は美しい音楽を奏でることにあるのではない。あなたが上手に歌えなくても構わない。それはいつでも実行できる。キルタナを実践する最も良い時は、あなたが悲しんでいる時、落ち込んだ時、或いは心配事がある時だ。目的は感情のエネルギーを愛の感情、喜び、そして明け渡しへの変容させることだ。厄介な感情を洗い流すためのシャワーを浴びながら始めなさい。
3. スマラナ:いつも「神」を忘れずにいること。これは、あなたの最も気に入っている「神」のイメージ、即ちイシュタ・デヴァータを思い起すこと、または人格を持たない絶対的実在、「意識」、「至福」であるあなたの内なる意識の光のヴィジョンを保持することによっても可能だ。それは瞑想、聖典読誦、哲学的思索、巡礼そして「神」の崇拝を通じて強固なものとすることができる。
4. セヴァ:無私の奉仕。あなたが愛情を注いだり他者に対する愛を現わしたりするあらゆる行為がセヴァである。もしそれをすることに対するあなたの動機が、あなたの個人的な必要性または評価への配慮なくして行われるのなら、それがあなたの仕事であったとしてもそれは無私である。それはカルマ・ヨーガの性質に満ちており、そこではあなたは結果に執着せず、「神」が全てを行い、あなた自身を単なる道具として見ており、観察者として行動している。
5. アルチャナ:内面的なものであれ外面的なものであれ、一人で或いはグループで行う礼拝。礼拝の対象物が紙、粘土、金属または木であろうがなかろうが、それは一時的なものであって、「神」への窓として供されている。実際、あなたは礼拝の対象物があなたの無条件の愛に見合うものであるかの如く振舞う。結果的に、あなたは無条件の愛を体験し、それがあなたの関係の全てに浸透しはじめる。
6. ヴァンダナ:崇拝、「神」の前に身を屈すること。これは単に肉体上で行われるのみならず、あなたの生命エネルギーの全てを大いなる熱心さをもって、主に対する奉仕と明け渡しに集中させることによってなされる。
7. ダーシャ:「神」の意志に従うこと。私の意志ではなく、あなたの「御心」が実現しますようにと繰り返し念じなさい。
8. サーキャ:世界中の全ての場所と全ての見せかけ、または形の中にある「神」を常に見る用意があること。
9. イシュヴァラ・プラニダーナ:「神」に対する完全なる明け渡し。パタンジャリのヨーガスートラの中で、イシュヴァラ・プラニダーナはクリヤーヨーガの三番目の要素である。その他の二つの要素即ち無執着と自己探求と共に、明け渡しは真我実現と苦しみの原因を弱める効果をもたらす。そして、心の「平衡」が続いて起こる。あなたは手放しで「神」にそれを委ねる。ヨーガスートラの第一章23節において、パタンジャリが更に説明していることは、我々の限られたエゴの意識を「神」に明け渡すことで人は成功裡に認識作用の埋没(即ちサマディ)を達成する。

上記バクティ・ヨーガのどの形態であれ、それを養うことで、あなたはヨーガの修練は向上し、或いは熱意を高める。向上心とは、「真」の、「善」なる、「美」しい「無条件の愛」を求める魂の切なる望みだ。それは怒り、抑圧、プライド、欲望、恐れといったエゴイズムの限られた視野とその現れを拒絶する。結果として、もしあなたがバクティ・ヨーガの強化を優先するのであれば、アーサナ、プラーナヤーマ、瞑想、マントラジャパを修練しようとの衝動を経験することになろう。修練に対する抵抗やエゴイズムから生じた扱い難い感情は、陽の光の中の水溜りのように、愛と献身の歓びのなかで蒸発してしまうだろう。

 超越することが容易になる。それがイエスであれ、ババジ、クリシュナ、シヴァ神または絶対的な実在・意識・至福であれ、あなたの献身の対象の性質をあなたは顕現する。

クリヤー・マントラ・ヨーガを修練することの相乗効果
ジャパとして知られるマントラの反復もまた、あなたが愛、純粋さ、謙遜、インスピレーション、集中力を高めるのに役立つ。あなたが最も惹かれるマントラとしてあなたの「神」の名前を選びなさい。あなたが顕現したいと望むマントラに関連する特性を感じるために、呼吸を静めて練習しなさい。その特性とは、例えばシヴァマントラの場合は静けさと無執着、クリシュナの場合は愛、ラクシュミの場合は豊かさ、サラスヴァティの場合は叡智といった具合である。数珠を繰り始める前に、マントラを108回唱えるまでは、決して心を他に向けないと自身に誓いなさい。あなたの集中力は高まり、結果としてあなたの瞑想はより深くなって気が散ることは少なくなるだろう。あなたの意志の力は驚嘆すべきものになる。あなたは人生の全ての次元で、あなたの意志を実現するだろう。瞑想の前にマントラジャパを実習することは、マインドの一点集中の下準備となる。

 マントラの修練は、心のお喋りに取って代わり、あなたのより高次の知性からインスピレーションを受け取るための余地を作り出す。結果的にあなたは直観から生じるより多くのインスピレーションや内なる導きを得ることになろう。人生で問題が生じた時、マントラを復唱することは解決策が降りて来る場をつくりだす。もし困難な感情で生気体が動揺しているのであれば、マントラがそれを宥め、心を静めてくれるだろう。

 クリヤー・マントラ・ヨーガの修練は、否定的なサンスカーラ(癖)やヴァーサナ(あなたが執着している困難な記憶)を中和するのに役立つだろう。それはあなたの心配、疑念、怠惰、肉欲、情緒不安定を含むヨーガの修練に対する障碍を取り除いてくれる。

クリヤー・ディヤーナ・ヨーガの相乗効果
 第一イニシエーションにおいて七つの瞑想法が伝授される。それらの相互作用は相乗作用の素晴らしい例だ。まず「無執着」(detachment)を養うシュッディは、集中力を必要とする二番目の技法、エカルーパの実施を助ける。それはまた翻って第三番目のイーネイルーパの下準備となり、そのように続いて行く。これが、あなたが全ての技法を順番に繰り返し練習することを求められる理由であり、夫々のセッションでその日の瞑想法を実施する前に、前日の瞑想法を手短に練習する理由だ。それらすべてを練習することで、そしてあなたが簡単だと思う技法だけを練習しないことで、あなたの弱点は強さとなる。そうでなければ、ジムに通って、既に強化された筋肉のトレーニングをするようなものだ。

 更に付け加えれば、夫々の瞑想の技法は異なった目的と効果を持っている。技法の最初のものは否定的な癖や記憶を持つ潜在意識を浄化するが、それが取り除かれない場合、実質的にあなたの修練を継続しようとする意欲を殺いでしまう。四番目の技法はあなたの知性、問題解決能力、コミュニケーション能力を高める。この能力は疑いを「課題」として明確にし、結果的にその答えと解決法を捜し、見つけ出す能力を含んでいる。五番目の技法は、あなたの人生におけるダルマ即ち使命を映像化して顕現させ、欲望を滅尽する能力を強化する。六番目の技法はあなたの直観力を高める。七番目の技法は、あなたの最も高次の「導き手」と対話する能力を養う。結論として、あなたのダルマ(使命)が明らかになり、人生の問題に正解を見出したり解決したりする能力が霊感に導かれて有効になるにつれて、あなたの修練に対する多くの障碍と同様に抵抗は取り除かれる。

クリヤー・クンダリニ・プラーナヤーマと関連する呼吸法の相乗効果
 ババジのクリヤーヨーガにおいては、第一イニシエーションで教えられるクリヤー・クンダリニ・プラーナヤーマが、他の如何なる技法よりも「五体」(訳注:肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体)に対してより強力な効果を及ぼす潜在力を持つ。霊的な次元において、それはクンダリニをより高次のチャクラに上昇させ、それらが関連している心理的な状態を覚醒させる。それは心を静めて瞑想の下準備を行う。それは集中力と視覚化能力を高め、グルへの献身を深めて修行者を深い安らぎの中において真我に気付かせる。それを行うことは肉体を緊張から解放し、困難な感情を含んだ生気体を浄化する。結果として内なる「グル」が前面に出て来て、「真」、「善」、「美」に対する希みが高まる。

 ブラフマチャリア・オージャス・マトレーカ・プラーナヤーマ(第二イニシエーションで伝授される)の実習はあなたが性的な欲望を霊的な希みに昇華させることを可能にし、悟りの妨げとなる根源を超越と霊的な実現をもたらす手段に変容させる。第二及び第三イニシエーションで伝授されるそれ以外の多くのプラーナヤーマの技法は、喘息、普通の風邪、不眠症疲労困憊、病気がちな体質を含む多くの機能的な問題や病気予防法或いは対処法となる。

クリヤー・ハタ・ヨーガの相乗効果
 アーサナ(ハタ・ヨーガ)が定期的に実習されると肉体を、不快感を伴うことなく静止させておくことができるので、瞑想がより容易になる。アーサナは気を散らせる原因となる、疼き、痛み、そして機能不全の元を改善することができる。他の体操のシステムとは異なり、アーサナの実習はリンパ節を活性化させる。我々が年を取るにつれて、リンパ節の適切な機能が、肉体及び精神的な健全さに対してますます問題を惹き起こすようになる。最低でも日に30分はアーサナを実習しなさい。

 18のポーズが定期的に実習されると、ナーディ(気脈)とチャクラ(生気体のエネルギー・センター)が覚醒する。それぞれのポーズが下位のチャクラから上位のチャクラへとプラーナのエネルギーを向ける。タントラによれば、意識はエネルギーに従い、それによって意識も目覚める。より高いチャクラに関連する心理的な状態があなたの人生の選択を支持する。瞑想中にあなたが容易に目覚めていられるというだけではなく、あなたの瞑想がインスピレーションに、より順応し易くなる。

 感覚を研ぎ澄まし、注意深くそして気づきをもって18のポーズを実習することは感情と精神的な平衡状態をもたらす。感情と欲望の座である生気体は静まる。あなたの人生で試練に直面した時、あなたはストレスをより上手に制御して恐れや反感の「鋭い刃」に対して静かに向き合うことができるようになる。あなたは心霊的な存在または魂の導き手の声がましますハートの中心をとらえ、そこに坐して自身の行動を導いていく。

あなたの修練から最大の成果を引き出す
 あなたのヨーガの修練の為、日に少なくとも二回、決まった時間を確保することを奨める。風呂かシャワーを浴びた後の早朝の時間(訳注:これはアメリカ人などの習慣に基づいて言っている)を、他の如何なる行動に対しても最優先としなさい。毎日五つのヨーガの支分のそれぞれから、幾つかの技法を実習しなさい。それをすることで、それらのいずれにせよ、実習によって得られる効果はあなたの五体を通じて何倍にもなるだろう。あなたの個人的な弱点が強みに変わるように、あなたがうまく出来ないか、それを行うのに抵抗を感じる技法を定期的に行うことを奨める。あなたが最も得意とする技法を修練することを更に一層楽しみなさい。
                                    
以上

BKYJ ⑤ 巡礼は「意識」における冒険です

BKYJ ⑤ 巡礼は「意識」における冒険です

2018年03月10日 10時34分52秒 | クリヤーヨーガ・ジャーナル
  KYJ2016年秋季号 
By M.G.Satchidananda

 私の人生にとって巡礼は、1972年に南インドに初めて行った時から過去47年に亘り、最も意義深い活動でした。旅行者とは異なり、巡礼者はそこで新しい経験を捜し求めるのではなく、気晴らし、娯楽、楽しみを求めるものでもありません。巡礼において、我々は「名前と形」(訳注:エゴ)を超えた我々の「真我」の真実、「神」、言い表すことのできないものを知ろうと求めるべきです。

 巡礼は全ての霊的そして宗教的な伝統に見出されます。 2000年に亘り、キリスト教の全ての宗派はベツレヘムヨルダン川への巡礼を行ってきました。ローマカトリック教徒もまた、ローマのヴァチカン、フランスのルルドモントリオールの聖ヨセフ教会に行きます。カトリック教徒と多くの者が、スペイン北西部のサンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブ大聖堂へ数百マイルの道を歩きます。

 ユダヤ人はエルサレムの神殿の丘に巡礼に行きます。仏教徒はインド、ビハール州のブッダガヤへと行きます。イスラム教徒とメッカへ行きます(ハッジ)。ヒンドゥー教シヴァ派の人たちは北インドのヴァラナシ、ケダルナート、アマルナート、そして南インドのチダムバラム、アルナーチャラ山、サバリマレーへと行きます。ラーマの信者はアヨーディヤへ行き、クリシュナの信者はブリンダヴァン、プーリ、スリランガンへ行き、ムルガン神の信者は、カタラガマ、パラニ、ティルチェンドゥールを含む彼の六つの寺院へ行きます。人たちの全ての伝統においては、南インドのラメスヴァラム、最北部のヒマラヤ、ガルワール地区のバドリナートへ巡礼に行きます。ヒンドゥー教徒仏教徒はティベットのカイラース山に巡礼に行きます。アメリカ・インディアンの伝統では、巡礼はヴィジョンによる探求の形をとるか、アリゾナ州セドナやカリフォルニア北部のシャスタ山のような神聖な場所を訪れることになります。世界には他に数百もの巡礼地があり、その多くは聖人、賢人、グルに関係しています。

 巡礼の世界的そして昔からの性質は、それが単一宗教の教えに限定されない、説得力のある証拠だということです  巡礼は自己超越における霊的な修練です。あらゆる霊的な修練にあるように、我々の目的は、ありふれた日常の生活への没頭を手放し、時間、空間、想念あるいは感情によって制限されることのない神聖さに対する向上心を養うことにあります。言葉を換えれば、退屈で、問題含みで平凡になってしまったものから離れ、知られることなく、人間性を高め、言葉に現せないものに向かって進むことです。我々のエゴが感じる、生気体における幸福感の経験を、束の間ながらもたらす欲望とは異なり、(霊的な)向上心は、「真」、「善」、「美」、「無限」そして「永遠」に対する魂の要求です。向上心は、好きだの嫌いだのといったエゴのゲームとそれに続く苦悩から遠ざかることを求めます。向上心は、「一者」との合一を求める魂の探究です。向上心は、マインドと感情から生じる全ての制限と分離感を克服しようとする魂の願望です。

 意識は人生におけるもっとも大きな神秘です。それは単に観察するものです。それは全ての生物に個別化されています。同時に、宇宙意識は全ての個別化された意識を観察しています。それは、巡礼者が究極的に探し求めている「それ」です。巡礼の目的地で、我々は「神」の神秘的な「存在」(あるいは臨在)に気づきます。『ヨーガ・スートラ』の第一章24/25節で、パタンジャリは「それ」をこのように表現しています。

「イシュヴァラは特別な神我であり、苦しみ、行為、行為の結果や、欲望の如何なる印象にも影響を受けない。そこ(至高の存在の中)に(完全な)全知を(顕現させる)種子がある」

 巡礼者は、選択無き気づきを養うことで(自身の)内奥に対する集中を維持します。旅行者は、そこで好きなものに飛びつき、嫌いなものを避けることで新たな感覚的な経験の過ぎゆくショーの中に幸福を捜し求めます。しかし巡礼者はどんな困難に直面しても、静かな平衡感と存在感を維持しようと努めます。

 巡礼の地に行くことは、概して困難を伴い、それは(巡礼者の心に)抵抗を生みますその抵抗は、(巡礼者が)それに耐え、目撃者としての魂の視点を維持し、執着や回避を伴うエゴの視点に屈することを避ける能力を試します。巡礼での経験は、古典的ヨーガで言う“ヴァーサナ”(薫習)、あるいは今日のボディー・マインド系の書物でいうブロッケージ(障害物)として知られる、未だ解決されていないトラブルや夢または希望を呼び覚ますきっかけになるかもしれません。選択無き気づきを養うことで、巡礼者はこれらを実際に手放し、そのような記憶が常に保持していた苦しみから解放されたことに気付きます。

 それでは、巡礼の目的地が何故我々の望みを叶える効果をもたらすのでしょうか? 聖者または霊的伝統や宗教の創始者は、そのような神聖な巡礼地に、巡礼者の霊的経験、気づきまたは意識のより高い状態に到達するか、少なくともそれを垣間見ることのできる崇高なエネルギーまたは種子を植え付けています。そしてそのような聖者または聖地に深い敬意を払う人たちが、自身の希望、愛そして献身をそこに貯めて行くにつれ、彼らの後に訪問する人達すべての意識を高めるパワーを増加させるのです。このように、聖地は、信心深い者が霊的なエネルギーを追加しそして引き出す、霊的なエネルギーの発電機となります。

 量子物理学とヨーガ・シッダーンタ(シッダの究極の教え)はともに、宇宙の基礎的な建物の素材は意識のエネルギー、すなわちシヴァ・シャクティだと教えています。意識のエネルギー以外は何も存在しないのです。巡礼者の眼には、時間、不完全な知識、部分的な力、情熱と運命を含むニュートン物理学の明らかな法則、グナ(自然の三要素)、マーヤー(幻力)の動力因は全て「それ」に溶け込みます。巡礼者が、目的地における意識のエネルギーを持つ聖別された場所に近付くにつれて全ての制限は超越されます。そこに到着し、彼らのあらゆる種類の抵抗、記憶、精神的な障碍を純化してしまうと、彼らは霊的な充足の至福を楽しみ、永遠にそこに留まります。

 巡礼は我々がサンカルパ、すなわちそこに行くという意図を固めた瞬間に始まります。 この意図とは、願望や希望ではありません。それは約束です。「私はいくつもりでいます・・・」しばしば我々は約束するとき、そこに行くのに必要な資金や物を集め、例えば、家族とか従業員に対する他の約束を終わらせるか、あるいは健康、教育、体調そして法律問題までも含む我々自身の制約を克服しなければならないかもしれません。しかし、(巡礼に)行く約束そのものが、あらゆる障碍とあらゆる形の感情的な抵抗を克服するための必要不可欠で強力な手段を与えてくれます。

 巡礼の間、よくある注意散漫、感覚的な歓び、色々な娯楽、家族に対する義務そしてデジタル時代にあっては携帯やeメールを通じて仕事をすることなどに耽ることを避けることで、巡礼者は霊的な希求に対する約束を堅持します。霊的もしくは宗教的な伝統によって、巡礼者は更に、祈り、マントラ、気づきを伴う呼吸法、瞑想を含むある霊的な修練を継続的もしくは定期的に行うことでしょう。従って、内面的には無欲として、そして外面的には内への集中を乱す活動を避けることによって離欲(無執着)が養われるべきです。離欲は真我実現を達成するための、パタンジャリの主な手法です。ヨーガ・スートラ第一章12節において、彼は次のように述べます。

「無執着を伴う常習により、意識の内に湧き起こる変動と(真我を)同一視することが停止する」

 ヨーガまたは霊的な巡礼のゴール、すなわち「自分はこの体であり、この心だ」というエゴの視点から生じる苦しみからの解放は、巡礼者がそのような執着を離れて観察する普段の修練に成功する度合いにのみ応じ、現実のものとなります。これは、巡礼の間に何かが起ころうとも、静かな心の平衡を維持することを求める純質的(サトヴィック)なアプローチです。

 不幸なことに、既に世界的な趨勢となった今日の物質文明において、しばしば多くの巡礼者は(彼らの)目的の必要性の僅かな部分しか達成できません。その目的とは、子供をもうけること、良い仕事に就くこと、または何か他の物質的な恩恵を得ることだからです。祈りの中で交わされた願い事にあるように、そのような巡礼者は出発前に、彼らが熱心に表現した願望と引き替えに巡礼をやり遂げることを神に約束します。このアプローチは激質(ラジャス)すなわち行為、散乱、熱情の特質に捉えられた者たちに採用されます。悪いカルマの結果または罪深い行為、罪、恐れを償おうとして巡礼を苦行と捉える人達もいます。彼らは暗質(タマス)すなわち惰性、疑い、不明(混乱)の特質に捉えられた者たちです。インドにおいてはしばしば占星術師が、激質的なものや暗質的なものに対する処方箋として巡礼を勧めます。

 バドリナートはババジのクリヤーヨーガにおいて、なぜ最も重要な巡礼地なのでしょうか ババジと18人のシッダの伝統に関連する多くの巡礼地があります。最も重要な場所は、ババジの生誕地であるパランギペッタイと、彼がイニシエーションを受けて苦行を行ったスリランカのカタラガマとタミールナードゥのコートラーラムです。しかし彼がソルバサマーディの究極状態に達したことを悟ったバドリナートが最も重要なのです。ババジはこの現象界において、彼の神聖な肉体を維持し続けているので、バドリナートは彼の信者と弟子が、彼らの明け渡しの程度に応じて、最も親しく彼の存在を経験できる場所なのです。完全な明け渡しは、五つの全ての象限(肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体)におけるヨーガの技法の究極の手段です。ヨーガ・スートラ第一章23節で、パタンジャリはイシュヴァラ・プラニダーナに就いて語ります。

「もしくは、『神』への明け渡しにより、サマーディを達成する」

 「神」が神々(訳者註:複数形の場合は唯一神ではなく、天界の諸神を指す)の名前や形としてではなく、最高に崇拝される「グル・ヨーガ」として、ババジのクリヤーヨーガは究極的に、愛の普遍的なヴィジョンを悟ることを求めます。ティルムラルはティルマンディラムの中で、「アンブ シヴァム」すなわち「神は愛なり」と言っています。

 この理由から2008年以来バドリナートにおけるアシュラムを建設中です。私がこれを書いている間にも、アシュラムの12の部屋は、四人の教師に率いられた18人の祝福された魂からなる最初のクリヤーヨーガ巡礼者のグループによって利用されています。当初これが計画された際の本来の目的は、集中的な修練を行いたいと希望するクリヤーヨーガ参入者(イニシエーション受講者)を援助するためのものでした。それとは対照的に、神聖で昔からあるシュリ・バドリナラヤン寺院で礼拝するためにバドリナートに行くほとんどのヒンドゥー教巡礼者は、そこに二日間滞在するだけです。ババジのグルであるアガスティアは、バドリナートに行ってそこで苦行(タパス)を行うよう伝えました。マハーバーラタという叙事詩に描かれた、インド国内を二分する戦争における古代の王族のリーダーであるパーンダヴァも、戦争の後バドリナートでタパスを行ったことにより、(魂の)解放を達成しました。他の数えきれないヨーギも同様です。私の師であるヨーギ・ラマイアは、そこでババジのクリヤーヨーガの144の技法を伝授されました。そして1999年に二回、バドリナートの更に上のサントパンス・タルで私はババジとのダルシャンの栄に浴しました。

 グルの原理(真理、無条件の愛、美、至福を現す大自然の法則)はどこにおいても接することが可能ですが、巡礼の熱心さとバドリナートで実施されるヨーガの修練に勝るものはありません。標高3千メートルに位置し、聳え立つ7千メートル級の山々に囲まれ、11月から5月までは外界から隔絶されたバドリナートはクリヤーヨーガの修練に理想的な、汚れなく、高い霊的エネルギーが注入された環境を提供してくれます。

 私たちからあなたへの巡礼の誘い  バドリナートの新しいアシュラムは、一週間から4カ月までそこに留まって長期に亘る強化修練を希望するクリヤーヨーガの修行者の特別なニーズを満たすために設計されました。教師団のメンバーは毎年、巡礼の時期として最も好まれる5月のほとんどの日と6月、そこを訪れる修行者と訪問客をサポートするため、新しく出来たアシュラムに滞在します。7月と8月はモンスーンが発生する季節のため、さほど好ましい時期ではありません。

 教師団のメンバーに率いられた17日間のバドリナート巡礼は毎年9月から10月にかけて編成されます。南インドスリランカにおける、18人のシッダに関連する神聖な場所への巡礼は、より涼しい1月、2月に毎年催されます。教師は日に二回、ババジのクリヤーヨーガの五重の道としてのグループ修練(サーダナ)を指導し、講義とサットサンガによりクリヤーヨーガに対するあなたの理解を深めることでしょう。バドリナートアシュラムの責任者は巡礼のグループに同行し、交通と宿泊施設を含む全ての旅程に関わる手配をします。この巡礼の企画は通常7~8日間のバドリナート滞在を含みます。他の日々は、330Kmに及ぶ景色が良い崖に沿った道を通じてのバドリナートへの往復、ガンジス川ヒマラヤ山脈の出口に当たるリシケシ、そして近くのハリドワールで過ごすことになります。この二つの都市は巡礼、タパス、クンバメーラの主要な拠点です。

 推奨されている5月、6月の間、または可能性としては7月8月でも、新しいバドリナートアシュラムに滞在する申込み、または教師に率いられた9月10月の巡礼または南インドスリランカへの巡礼の参加申し込みは、著者である私(satchidananda@babajiskriyayoga.ne.)に送信して下さい。バドリナート巡礼、または来年の南インドスリランカへの巡礼に参加するあなたの夢を、今日現実のものとしなさい。それを計画し、準備し、そして映像化(視覚化)しなさい。この瞬間から後は全ての障碍を克服するために気づきを伴った行為を養い、それによって全ての苦しみからあなた自身を解放しなさい。あなたの人生という巡礼が、覚醒という結果をもたらしますように。

以上

BKYJ ⑥ 愛は神なり(Anbu Sivam)

BKYJ ⑥ 愛は神なり(Anbu Sivam)

2018年04月12日 09時42分17秒 | クリヤーヨーガ・ジャーナル
BKYJ 2018 Spring
By M.G.サッチダナンダ


愛は神なり、(Anbu Sivam)

 私の人生の目的は何なのか? どうして私は苦しんでいるのか? 私という存在は誰なのか? いつかはすべての者がこれらの基本的で「存在」に関する疑問に直面しなければなりません。これらの質問は、我々一人ひとりを、人間の性質に関わる制限から解放する動機になるということをヨーガは教えます。これらの質問に対する答えを見出すことは叡智或いはジニャーナ・ヨーガです。ヨーガの修練を実践する者、即ちサーダカは、人間の性質の限界を克服し、シッディとして知られる潜在する完成の域に達したシッダの叡智の教えを理解することで恩恵を享受します。

 シッダ達は、我々人間の性質は、マーラーとして知られている三つの汚れまたは足枷の支配下にあると教えています。その第一は、アーナヴァ・マーラーとして知られている、我々の本当の正体を見誤っていること、或いはエゴイズムであり、その第二はマーヤー即ち精神的な錯覚であり、その第三は過去の想念、言葉そして行為の結果としてのカルマです。ヨーガとは我々の持つこれらの三つの汚れを浄化するプロセスだと彼らは教えています。それにより、我々は苦しみの源である苦痛の種を弱め、真我実現に至ります。パタンジャリはヨーガスートラ(以後、YS)で次のように言います。「無知、エゴイズム、執着、反感そして生への執着が五つの苦痛の種である」(YSⅡ-3) 「これらの精妙な形での苦痛の種は、その原因まで遡ることで破壊される」(YSⅡ-10)「動的な状態にあり、意識の中から生じるこれらの心の揺らぎは瞑想によって破壊される」(YSⅡ-11) 五つの苦痛の種が我々の誤った自己認識と、真我からの分離を維持しています。(意識の)精妙なレベルで、それらは潜在意識下の印象(サンスカーラ)として存在します。これらは、その間あなたが繰り返し真我と同一化する様々なレベルのサマーディ(認識作用の没入)を通じてその源にまで戻ることによってのみ取り除くことができます。小さな自我(偽我)は徐々に偉大な「真我」に包摂され、それにつれて潜在意識下の印象は溶けていきます。YSⅠ-12でパタンジャリは、その手段を我々に教えていますが、それは「無執着の継続的な練習によって(達成される)」ということです。自分自身に聞いて見なさい、誰が執着しているのか、だれが苦しんでいるのか、誰が反感を持っているのかを。パタンジャリは続けてカルマについて説きます。「苦痛の種の中に根を持つカルマの貯蔵庫は、現在現れている人生と、将来の未だ現れていない人生の中で経験される」(YSⅡ-12)「その根が存在する限り、その果実もまた存在する、即ち誕生(再生)とその(人生での)経験である」(YSⅡ-13) 「有徳と不徳のカルマの為、それに対応する歓びと苦痛に満ちた結果がある」(YSⅡ-14) 彼はクリヤーヨーガを定義付けて、その目的をYSⅡ-1で次のように語ります。即ち、「苦行(厳しい修練)、自己探求(聖典読誦なども含む)、『神』への献身がクリヤーヨーガを構成する」 「これらはあらゆる苦痛の種を弱めてサマーディを育むために用いられる(手法である)」(YSⅡ-2) 無想三昧(アサンプラジュニャータ・サマーディ)として知られる悟りの状態に到達するためとして、パタンジャリは次のように言います。「それ以外のヨーギンにとって、無想三昧の前に、強烈な献身、勇気、正念正知、サマーディ(三昧)そして真の洞察力(叡智)が現れる」(YSⅠ-20)

これらの章節に対する説明については、私の本、『パタンジャリとシッダのクリヤーヨーガ・スートラ』(訳注:日本語版は現時点で未刊)の第1章と第2章を読みなさい。

愛はクリヤーヨーガの手段であり、目的地です 
叡智と明確な目的を持たないヨーガの実習者にとっては、物質的な文化の価値、即ち競争、名誉、見せかけ、個人主義、健康、富、成功によって動かされてしまうことが簡単に起こります。ヨーガといえども、ある者によって、このような物質的な目的を達成する手段として売り込まれることがあります。そのような道を辿ることは、前述したような苦痛の種、即ちエゴイズムの汚れ、錯覚そしてカルマからあなたを解放しないでしょう。それ故、あなたのヨーガの修練の目的を真の目的に沿ったものにしなさい。その目的を愛そのものとして定義づけることから始めなさい。あなたがそのようにすれば、愛があなたを変えるでしょう。愛があなたの目的となった時、愛に対するあなたの理解は深まるでしょう。それは無条件のものになります。愛はクリヤーヨーガの手段であり、目的地となるでしょう。愛とは全ての存在の魂の中にある神聖な火花です。それは、無私の性質、慈悲深さ、そして生きとし生けるものに対する同情の中に現れます。真の愛はエゴを犠牲にすることです。それは魂の中に組み込まれた神の光です。魂がそれを見る時、「真我」は愛によって圧倒されます。ティルムラルは” Anbu Sivam”即ち、愛はシヴァ(「神」)なりと私たちに告げています。

無知なる者は「愛」と「シヴァ」は異なると言う
「愛」は「シヴァ」なることを彼らは知らない
「愛」は「シヴァ」なりとひとたび知れば
「愛」は「シヴァ」として(そこに)とどまる

神の恩寵は愛の最高の形であり、純粋で汚れがありません。その唯一の関心事は魂のためです。神の恩寵は、全ての俗世の出来事を通じて魂がそれ自体を学び、(自身を)取戻し、神の至高の愛を体験し、それと一つになることを可能にします。神は我々に愛する力を与えましたが、魂はそれによってそれ自体を「シヴァ」の世界に押し上げます。愛は我々をより神に近付けます。他の宗教では「神は愛なり」と教えるかも知れませんが、ティルムラルは「愛は神なり」と教えます。この神聖な一節は、本質的に神秘主義的であり、真に理解するためには経験されなければなりません。

 ヨーガの全ての主たる形式(バクティ、カルマ、ラージャ、ジニャーナ)とタントラ(人間的な性質の神性への変換手法)において、愛はヨーガの基礎です。YSⅡ-30で、愛は八支分のヨーガの禁戒に表されています。それらは非暴力、誠実、不盗、純潔(不邪淫)、そして不貪です。これら五つの社会的な制約は、我々の社会生活を律し、調和させるとともに、修練の基盤を作り上げます。

 愛は、あなた自身を愛することから始まります。もしあなた自身を愛せないなら、どうして他人を愛することが出来るでしょうか? あなたはどんな方法で自身を愛することが出来ますか? 肉体的に、感情的に、精神的に、知性的に、そして霊的に・・・。

あなたはどのように自身を肉体的に愛せますか?
 この質問に答えるに際し、私があなたに与えることのできる最良の助言は、あなたの人生の中で食べ物が果たす役割にますます気付き、意識して食事することです。観察者でありなさい。食事も含め、全ての行動の間、意識していなさい。あなたの食べる者が有る無しに拘わらず、それが美味しいかどうかに拘わらず、ニッティヤーナンダ・クリヤー(訳注:第二イニシエーションで明かされる技法)の修練をしなさい。気づきと平衡(静けさ)を養いなさい。本能の奴隷になってはなりません。研修を受け、本を読み、完全で美味しく健康によい簡素なヴェジタリアンの食事を試しなさい。消化の具合に注意しなさい。あなたを元気づけ、あなたを支配しているドーシャのバランスに役立つ食べ物を選びなさい。

 あなた自身を肉体的に愛するということは、疲れた時に休息することも含んでいます。真我の気付きの妨げとなる疲労困憊を避けなさい。あなたの腺が十分なエンドルフィンを分泌し、あなたの内なる様々なシステムが健康を維持するよう十分肉体的な運動を行いなさい。ストレスの影響を制御するために、クリヤーヨーガの五重の道の修練を行いなさい。定期的な18のポーズとプラーナヤーマと瞑想の修練はこれに十分なはずですが、それらを補うために他の運動を行うことも歓迎します。

あなたはどのように自身を感情的に愛せますか?
 自身の感情を蚊のように扱う者もいますが、感情はメッセンジャーなのです。我々はそれらを殺したり抑圧したりしようとするより、メッセンジャーが運ぶものを理解しようと努めるべきです。あなたが怒り、心配、恐れ、憂鬱を感じる時にはいつも、自身に「何故なのか?」を問いなさい。四番目の瞑想の技法を使い、その感情が湧き起こり、それがあなたに何を教えようとしているか熟考しなさい。あなたが感情的になった時、その状況をコントロールしたいのか、それとも愛されたいのかを自身に問いかけなさい。そして「誰がそれを望んでいるのか」、「私という存在は誰なのか」と問いかけるのです。執着によって愛が汚れた時、あなたの期待通りにならなかったとき、あなたは苦しみます。無執着により、即ち他者から何かを得ようとの期待を手放すことにより、あなたは苦しみを避け、エゴイズムからも自由な、無条件の愛を経験することができます。

 聖歌や献身の歌、儀式や巡礼といったバクティ・ヨーガの実践を通じてあなたは否定的な感情に関わるエネルギーを肯定的な感情に変換することができます。例えば、あなたが落ち込んでいると感じるとき、感情を込めて聖歌を歌いなさい。これは厄介な感情を解放するのみならず、あなたのハートを愛と献身で高揚させることでしょう。これは否定的な感情を過食、飲酒、喫煙または他の中毒症になりやすい行動を通じて解消することより遥かに勝ります。感情はあなたの友とも敵ともなりえます。すべてあなたがそれらをどのように扱うかにかかっています。

あなたはどのように自身を精神的に愛せますか?
 このレベルにおいて、我々は五感を通じてあなたのマインドに入ってくるものについて気にかけます。あなたは眼、耳、皮膚、鼻そして舌を通じて自分をどのように養っていますか? あなたは暴力、欲望、怒り、恐れといったイメージ(映像)で、あなたの潜在意識を満たすたぐいの娯楽を求めていませんか? 単に気を紛らわすための行動であなた自身を養おうとしていませんか? それともあなたに霊感を与えるイメージと、平衡と自己覚醒を養う助けとなる行動を選びますか?

 あなたの家またはアパートはどのように見えますか? 散らかったスペースはありませんか? あなたが最早必要としていないものを手放すことで、新たなスペースを作ることができますか? あなたの居住空間を清潔にし、整理整頓なさい。清潔は敬神に次ぐ美徳です。ババジがあなたを訪ねて来るその日に、あなたがそうするであろうように綺麗にしておきなさい。香を焚きなさい。装飾をやり変えなさい。献身の歌を歌いなさい。あなたのマインドと魂を高揚させる音楽を演奏したり、聞いたりしなさい。あなたの家の一部をヨーガの修練の為に確保しなさい。そこを道場とし、ヨーギーでありなさい。他者に奉仕するための音楽、芸術そして環境を創造することで、「神」があなたのマインドを通じて「愛」を表現するに任せなさい。

あなたはどのように自身を知的に愛せますか?

 あなたは何を読むべきでしょうか? あなたが読んでいる本はあなたを向上させるものですか、それともそれは単なる気晴らしですか? あなたの健康を増進させ、精神を向上させ、瞑想を実践することを促し、あなたの個人的な成長に役立つ、感激するような物語を多く読みなさい。それらがあなたの問題を解決する助けとなるでしょう。愛には拡大が伴い 、知性は好奇心を持ち、質問をして答えを求め、熟考することを許された時に拡大します。人々は余りにもしばしば、そのリーダーが真理の唯一の貯蔵庫だと主張するスピリチュアル系のグループや宗教に参加します。多くの場合彼らに遵う者に対して、他の何物も読まないように、更に悪い場合、質問をしないように・・・つまり彼らの言うことを何でも盲目的に受け入れるよう伝えます。率直に言って、これが宗教の問題です。あなたは神から与えられた知性を拒むことで自身の知性を欺きます、そしてこれは、知性を愛することの逆なのです。もし「神」があなたに羊であって欲しいと望んだなら、「神」はあなたに人間の頭脳を与えなかったでしょう。科学的に取り組みなさい。質問し、答えを求め、実験し、自身の経験を記録し、自身の行為と反応を研究し、他人のものと比較するのです。全ての典籍(情報源) から学びなさい。あなた自身の主人になりなさい。他の誰かにあなたを支配させてはなりません。誰に対してもあなたの力を明け渡してはなりません。考えて熟考する力を放棄してはなりません。知性が必ずしも全ての質問に答えられる訳ではありませんが、多くの問題を解決することができます。あなたの経験を、聖典で教えられていることと比較するのにその知性を使いなさい。神の導きと霊感により、「神」があなたの知性を通じて働くに任せなさい。

あなたはどのように自身を霊的に愛せますか?
 本来霊的な(スピリチュアル)という言葉は、愛そのものを意味していました。しかし今は、死人と言葉を交わしたり、霊媒、サイキックパワー、体外離脱といったりするものを意味するあいまいな言葉になってしまったかもしれません。しかしこれらは、真の霊的な愛とはほとんど無関係です。霊性を開発するための最良の方法は、あなたの考え、言葉そして行動のすべて、そして日々の生活の最も小さな仕草までも愛のネクターの内に浸すことです。例えば、あなたの友人、家族、他人を配慮と愛情をもって扱いなさい。あなたが他人に対しどんな考えを持っているかに気づきなさい。あなたの想念を変えなさい。それぞれの人の中に、良い点、優れた点を見るよう努めなさい。他人を悪く思うことであなたは彼らとあなた自身の中の否定的な傾向を強化しているに過ぎないのです。

 他人にとって役立つこと、向上に資することだけを話しなさい。さもなければ、沈黙を守りなさい。

 バクティ・ヨーガを定期的に実践しなさい。家の中に祭壇を設け、そこにあなたが崇拝すべき「神」の様相を示す肖像か象徴を置きなさい。聖歌を歌って祈りなさい。それがあなたの無条件の愛に相応しいと考えることで、あなたはその愛を味わうことでしょう。そうした経験は余りにも素晴らしいので、その対象が人々であれ動物であれ対象物であれ、あなたの経験すべてにそれを付け加えたいと思うことでしょう。もしあなたがある集団に惹かれるのであれば、そのグループの奉仕活動に参加しなさい。

あなたのグルの導きに任せなさい:「神」との共同創造者になること 
「神」或いは至高の存在は、それに何という名を付けようが、あなたを愛しています。それは、グルを通して、またシュリ・オーロビンドが「霊的存在」として言及している自然の中に必然的に含まれる魂を通してあなたを導くことも求めています。「神」とその道具である人間の「グル」は、同情と叡智をもってあなたの本当の性質、即ちハイアーセルフまたは魂においてあなたを愛しておられます。しかし、もし「神」と「グル」がただ同情しているだけであるなら、彼らはあなたを生活の幻影から救い出すことはできなかったでしょう。あなたは彼らの同情を、現在のあなたの在り様に対する愛と誤解してしまうことでしょう。もし「神」と「グル」が単に聡明であって同情を欠くのであれば、恐らくあなたは弟子として、自己変容に対する要求のもとでつぶれてしまうでしょう。弟子というのは、グルとの建設的な関係を妨げたり、遅らせたりする誤解、期待、幻想、錯覚に陥りがちなものです。

 あなたが「神」を愛するある段階で、あなたは自身の人生を創造する能力と責任を持つことに気づくでしょう。通常の「眼を開けたまま夢を見ている状態」を超えて、創造的な段階に到達するでしょう。あなたは創造的になるのです。叡智と真我実現の道に沿ったものだとあなたが知っている夢、そのあなたの夢に対して忠実であり続けます。「神」は最早離れた存在ではなく、あなたは「神」との共同創造者だと感じます。

 「神」は慈悲深く与えます。「神」は霊感を与えます。あなたが何かを起こそうとの意図を固めた時、宇宙はそれを成就させるためにあなたをサポートする力を下さいます。あなたはそれを実現させる為、一生懸命働かなければならないかもしれませんが、自分が行為者ではなく、単なる道具だと感じます。宇宙がその面倒を見てくれると信じ、あなたは忍耐強く結果を待ちます。あなたは現在にとどまり、あなたが必要とすることを行っている間にものごとが成し遂げられます。あなたはますます「神」の御意思に自身を同調させます。しかし、こうしたことは、エゴの要求や好みを純化するにつれて生じるのです。その結果が何であれ、あなたは(「神」の)祝福を感じます。
以上